いつまでも「若々しい」人はドコが違うのか 中曽根元首相に茂木健一郎氏が聞いた秘訣
実際に、自分が座っている席の券を持っている人が来て横に立ち、怪訝な表情をしようものなら、まるで犯罪でもしたかのようなバツの悪い思いがする。こんなさまざまな苦境を、指定席さえちゃんと買っていれば経験しなくて済むのだから、楽には違いない。しかし、その楽さのなかに、生命力を衰えさせる罠もまた潜んでいる。
自由で不確かな「アメンボ」のような気持ちでいたい
生き物にとって、自分が使用する空間は大切な資源である。領域をめぐり争うのは人間だけでなく、すべての生物の習いである。
コンラート・ロレンツは、攻撃性の研究をした。自分の占めている空間が安泰なのかどうか、本当は生きものとしての勢いと勢いがぶつかりあうことで常に変化している。
「万人の万人に対する闘争」を避けるために、人間は社会契約を結ぶ。「指定席」というのは、つまりは社会の秩序、経済原理によって一応は自分のものと決まっている空間のことだが、人生のすべての局面において「指定席」があるわけではない。
思い出すのが、アメンボたちのことである。
アメンボは、水面上でそれぞれのテリトリーを持っている。広い水域を支配している個体ほど、水に落ちた昆虫を補食したり、交尾をしたりする機会に恵まれる。
しかし、水面の上に線引きがされているわけではない。何も保証などない。ここはオレのシマだ、とばかりにスーイスーイと泳いでいても、他のアメンボが来てしまえば、おしまい。押し合いへしあいがが始まる。
「わっ、おい、何するんだ。こっちに来るな」
そんなことでも言いたそうに、水の上をあっちへ、こっちへとお互いに小突き合っているアメンボたちを見ていると、生命の実相はこっちの方にあるなとつくづく思う。
そこには保証されたものなど何もない。すべてが自然である。だからこそ、生命がきらきら輝いている。
指定席を買うのは生活の便宜である。「ここは私の席だ」とふんぞり返っている人たちの群れ。そんな車両に自分もいる。トイレに立って、戻るときにそれぞれの席で「ふんぞり氏」になっている人間たちの表情をこっそり見る。いつでもどこでも小突き合っている、アメンボたちの生活から、人間は随分遠くへと来てしまった。
安泰しているのはイヤだな。ときどき不安だったり、不確かだったり、切ないくらいの方が生きている心地がするな。
水面をスイスイ泳いでいるアメンボの気持ちを、忘れないでいたいのである。
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