「ジャパンオイスター」がアジアを席巻する日 香港の富裕層が「被災地」三陸のカキを絶賛
大震災の2日後には、山形県経由で宮城県に入った。家は大規模半壊したが、避難所で家族の安全は確認できたという。「家族は無事だった」。そこで立花さんは終わらなかった。大混乱が続くなかで「自分ができるかぎりのことをしよう」――。そう思い、動きはじめたのだ。大震災直後から宮城県内を炊き出しボランティアで回るうちに、かかわることになったのは、地元の仙台ではなく、仙台から北東へ50キロメートル以上も離れた宮城県石巻市雄勝町だった。
都会の人に「第2の故郷」を
雄勝町は、深い入り江、すぐ近くには山が迫る、そんなリアス式海岸の景勝地として知られている美しい漁村である。50年前にはその狭い場所に1万人以上が居を構えていたが、大震災前には5000人を切っていた。津波が雄勝を襲った後、人口は1500人強にまで減少した。
雄勝といえば知る人ぞ知る日本一の硯(すずり)の産地でもあるのだが、若い世代は仕事を求めて宮城県の第2の都市である石巻市内や県の最大都市・仙台、それ以外の地域へと移っていった。急激な人口減少で学校の数も減った。公共交通機関を使って通える高校は限られている。
東北にはよく見られるが、高校進学とともに親元を離れることも多い地域だった。限界集落となることは見えていたのだが、津波によって「未来」が「今」になったのである。
「日本中どこの地域でも、いずれ人口は減少します。それを前提として、『集落がこれからも存続するためには、何ができるのか』を模索しました」
実は、雄勝は人口が急速に減少したとはいえ、地域の団結は強かった。これは世代を超えていると感じたという立花さん。減ったとはいえ、比較的若い漁師もいる。人口を急激に増やすことはできなくても、この地域の人に都市部の人がつながり、「なくてはならない地域」「第2の故郷」としての価値を生むことができる、というのである。
そのために“コミュニティ消費型の漁業”の実現を考えた。まずは知ってもらうためのイベントである。自ら車を運転し、首都圏から毎週雄勝へと人を運び、雄勝の魅力を実感してもらった。「イベントをやることで、新しい日本の漁業も、雄勝の町も、人との絆も一緒に育ててほしいと考えました。来てくれた人が家に帰っても、雄勝を思ってもらうことです。そのひとつの形が“雄勝そだての住人”という活動です」。
活動は2011年8月から始まった。「これは生産者の顔の見える漁業を目指し、水揚げしたばかりのカキやホタテなどを、契約者に旬の時期にお届けする。併せて、水揚げ時の写真やそれまでの活動報告、食べ方の提案などを商品に同封してきました」。
こうして少しずつつながりを密にしつつ、定期的に体験イベントも行うようにした。都会生まれの子供は、田舎を知らずに育つ。このイベントで雄勝を訪れることで、疑似的ではあるが「田舎」と「故郷」も体験できるのだ。
この事業はさらに進化を遂げ、ブランドづくりに挑戦することになる。それが『Japan Oyster SANRIKU himeco(ヒメコ)』だ。これは新たに始めた三陸産の岩ガキだ。「ジャパンオイスター・ヒメコ」として海外輸出専用に、カキを三陸の海で育てているのだ。
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