大学博物館という至福−−静かに進む東大の試み

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細分化した知を横につなげる役割

学術標本というモノを、その当事者以外の者が先入観なしに、いわばおかめ八目的に眺めることから生まれる好奇心。こうした知的態度を西野は、同館設立の宣言書ともいえる自著『大学博物館』(東大出版会)の中で「包括性」という言葉で指し示す。

「日本の大学教育に欠落しているもの、それはひとことで言えば包括性である。(中略)現状のままに放置すれば、逢着する先は見えている。すなわち、先端的とは言うが、その実は独善的で、一般人の理解を超えたもの。専門的とは言うが、その実は偏向的で、徒に先細りするもの。教育的とは言うが、その実は排他的で、非人間的なもの。」

総長の小宮山宏は、ユニバーシティとしての東大が目指す姿を「自律分散協調系」という生命体を表現する用語で表現する。「例えば人の場合、心臓や肝臓といった臓器は体内に分散してそれぞれ自律的に動いていますが、それらが総体としては協調的に機能し、生命の営みがなされている」(同大ホームページ)。

「たこつぼ化」と、耳にたこができるくらい言われてきた細分化した学術領域を横につなぐ力。総合研究博物館は、学術標本という誰にとっても明らかに存在するモノを媒介に知の包括性を取り戻そうとする。それは世界レベルで生き残りを目指す東大のパイロットモデルなのである。

このことは、同館のデータベースづくりにも特徴的に表れている。要はあるゆるモノを写真に撮って、その画像をデータとして蓄える。普通データベースといえば適切な分類が至上命題のようにいわれるが、分類された資料を探し当てることができるのはその分野の専門家だけである。そうではなく、視覚情報を優先することによって、非専門家がアクセスできる、いわば「何だかわからないけど面白そうなモノ」に行き当たる可能性を担保しようとするのだ。

と、大学博物館構想の広げられた大風呂敷に少々付き合いすぎたかもしれない。だが、そもそも大学とは「何だかわからないけど面白そう」なことをやっている人がいっぱいいて、うろうろしていれば必ず未知の「面白そう」に出合うような、ワンダーランドだったのではないだろうか。

居心地のいい空間 知に浸る快楽

それにしても、と博物館に戻って思う。この居心地のよさはなんだろう。およそどんな展覧会に行っても、居心地のよさどころか、疲れなかったためしがない。それがここでは、ときに「見なければいけない」という強迫からも解放されて、ほっと一息つけるのだ。

「モノに対峙するための五感を組み立てて見せると、皮膚感覚的になんか気持ちいい、もう1回来たい、と思える空間ができる」と西野は言う。展示壁の端が垂直でなく、緩くアール状に削られて曲線の反復を見せる。ガラスケースの薄い緑と、さりげなく置かれたソファの赤は補色の関係。あえてインデックスをつけずに展示物が情報過多になることを防ぐ--。同館の博物館工学研究部門が蓄積してきた、展示デザインの技術である。

同館は、東大の前身である東京医学校の旧校舎を利用した「小石川分館」を持つ。この瀟洒(しょうしゃ)な木造擬洋風建築が博物館としてリニューアルされたのは、くしくも六本木ヒルズに森美術館が鳴り物入りでオープンされたのと同時期だった。「これまでの日本の文化政策は、ラウドスピーカーで叫ぶようなものが多すぎた」。西野は数だけは世界有数だというこの国のミュージアムのことを思う。「もっと人間の間尺に合った、居心地のいい空間があってもいいじゃないですか」。

分館には今、気鋭のアメリカ人美術家マーク・ダイオンが学術標本をアートとして見せる「驚異の部屋」が常設展示されている。妖しい美しさを放つ古い実験器具や計測機器の間を縫って館内を歩いていると、隣接する小石川植物園から穏やかな風が窓越しに吹き込む。平日の午後、この空間に入り浸る至福は、ちょっと他人に教えたくない。
=敬称略=

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