中川:480万部(『五体不満足』)かよ、うらやましいぜ、って。日本人でこれを上回るのは、『窓ぎわのトットちゃん』の黒柳徹子さん(約580万部)、『道をひらく』の松下幸之助さん(約520万部)しかいない。だから、別に弱者うんぬん以前に物書きとしてすごい人だって認識だったんですよ。すごい著者、しかもイケメン。もし、乙武さんがあの本をあそこまで売ってなかったら、別の見方をしてたかもしれないけれど。
河崎:乙武さんはスペックが高いし、おカネも仕事も家族もすべてを持っている。そこらの健常者の男よりもよっぽど勝ち組。だから不倫を報じた「新潮砲」がさく裂したときにも、私は乙武さんを強者として認識していました。
中川:あのときって、たたく論調は不倫だっていうことだけですよね。
24時間テレビ的な勝手な文脈で
河崎:そうそう。あとはやっぱり、あの乙武さんがそういうことをするんだって、老若男女がショックを受けたんですよね。
中川:それは「障害者は清廉潔白たれ」みたいな、24時間テレビ的な勝手な文脈。乙武さんは自分に向かってイメージを押し付けるような社会の目があるとは感じますか。
乙武洋匡(以下、乙武):「聖人君子」の仮面には、この18年間ずっと苦しめられてきました。22歳、大学3年生のときに『五体不満足』が出版されて。本の内容は、わりと面白おかしく書いたつもりなのに、やっぱり障害者であるということが前面に出たことで、非常に清廉潔白な聖人君子、というようなイメージを持たれてしまった。でも、自分がそんなたいそうな人間でないことは、自分がいちばんよくわかっているわけです。
メディアに出るたびに、おちゃらけてみたり、下ネタをぶっこんでみたりと、わりと露悪的に振る舞い続けたんですね。ところが、実際に放送された番組であったり、掲載された記事であったりを見てみると、そういったところはバッサリとカットされている。そんなことが何年も続くうちに、「あ、求められてないんだな」と。自分の多面的で立体的な姿っていうのは必要とされておらず、自分がいいこと言っているところ、頑張ってるところ、そういうところを平面的に切り取られて、そこだけが必要とされているんだなと。それが何年も続くうちに、やっぱり自分の中でも、摩耗してきてしまった部分というか、あきらめに近い気持ちが出てきてしまったんですよね。
そこで勝手に自分の中で、オン・オフできるスイッチをつくっていくようになった。「じゃあもうわかったよ。皆が求める乙武さん、ちゃんと演じるよ」と覚悟を決める一方で、本来の自分の弱さ、だらしなさという部分がプライベートに凝縮されてしまった。「公では頑張ってるんだから……」とどこかで自分を甘やかしてしまっていた部分もあったかもしれません。
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