45歳東大卒シングルマザーの重すぎる試練 「激しいパワハラのせいで障害者になった」

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慢性疲労症候群が発症後、現住居に引っ越すまでの7年間は地獄のような日々だった。1年間、一度も外出しない年もある。前住居はエレベーターのない4階。車椅子で全介助に近い彼女は、とても外出することはできなかった。

「もう何年間も自分1人では生活できない状態。お風呂はもちろんですし、ご飯を食べたりもできない。こうしてカップを持てる日はいいけれども、1食を食べきる体力はないです。食べれば元気になる。でも、食べられない。体力落とす。その繰り返し。ちゃんと動く手と足が欲しい、そう毎日思っています。本当に情けないです」

日々状態が悪化して、7年前から手も足も満足に動かなくなった。寝たきりに近い状態になり、清潔は保てない。狭い部屋に介護ベッドを2台置き、汚れたら隣のベッドに移る。食事と入浴はヘルパー頼り。最悪な生活環境を子どもたちに申し訳ないと思いながら、ベッドでじっと天井を見ているだけの日々を送っていた。

「カラダが動かないのは、本当に気が滅入ります。それに症状が本当に苦しい。今はちょっと落ち着いているけど、疼痛がある。鋭い痛み。私の場合は肩の関節にキリを入れて、ぐりぐりされているような。それが何時間も続く。何年間も痛みに苦しめられて、ここにきてちょっと緩和しました。やっぱり生きているのが、しんどいってなります。自殺して亡くなった人たちがうらやましいな、って思っていました。慢性疲労症候群の患者は自殺率が高い。私もやっぱり追い詰められて死にたいって時期は長かった」

発症のとき長男は7歳、長女は5歳。家賃負担が重く、子どもたちは給食以外を満足に食べることができなかった。空腹の中で、交代で母親の食事介助やトイレ誘導など介護を手伝った。厳しい生活だった。

「カラダが許すかぎり、子どもたちにできることはしました。子どもがいなかったら、もっと療養に専念でき、早くよくなるかもっていう考え方もある。けど、私の場合は子どもがいるから希望があって頑張れた。子どもがいなくて1人だったら、たぶん3~4年前に自殺していました」

井川さんは体力がない。長時間しゃべることも難しい。ここまでしゃべったところで息切れが始まった。少し時間を置く。

「東大卒」でも就職は厳しかった

手元のスイッチで背もたれを倒し、目をつぶって休む。30分間、小さな声で話をしただけ。体温調整ができず、少し震えている。どうして厳しい現状に至ったのか、足早に聞かなければならない。

東大大学院在学中から、臨床活動を始めた。1998年に大学院を修了してからはフリーランスの臨床心理士になる。各地の教育委員会、総合病院の精神科、大学の学生相談室、私立大学や大学院の非常勤講師など、活発に仕事をした。

「私たちの世代は、東大卒でも就職は厳しかった。非常勤掛け持ちが一般的で、今、高学歴女性の貧困が問題になっていますが、まさにそれです。私はたまたま単価の高い仕事をもらったので、月収は50万円ほど。それで1999年に結婚して、すぐに長男が生まれました」

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