ランボルギーニは製品の魅力も増している。かつてのランボルギーニは年間200台前後をハンドメードでひっそりと作る特殊なメーカーであった。なんとランボルギーニ・カウンタックは25年以上、その後継となるディアブロも10年以上に渡り作り続けられた。それは度々、オーナーが変わるという不安定な経営状況のなかで、ニューモデル開発ができないという、やむにやまれぬ理由によるものであった。
それが大きく変わったのはランボルギーニがアウディ傘下となった1998年のことだ。開発から製造までの体制を一新するため、今まで長きにわたって滞っていた投資を大規模に行った。そしてアウディとの共同開発によるV10エンジン搭載のガヤルドが主力車種としてブレークしたのだ。
このあたりのいきさつは拙著『フェラーリ・ランボルギーニ・マセラティ 伝説を生み出すブランディング』で詳しく解説しているが、ここでアウディが賢かったのは、開発や製造をドイツに移管せずサンタアガタに残したことだ。彼らはよくブランドのことをわかっていた。ランボルギーニはサンタアガタにあってはじめてランボルギーニなのであって、こういうスーパーカーの開発はモデナの風土でしかありえないということもよく理解していた。
一新された経営陣はアウディのドイツサプライヤーによる信頼性の高いコンポーネンツをうまく活用して、VWグループのクオリティコントロールをイタリアのサンタアガタ工場に持ち込んだ。当初はいろいろなトラブルがあったものの、開発および製造体制は大きくレベルアップし、ベストセラーのV10気筒モデル、ガヤルドの中期あたりから、“ランボルギーニは壊れなくなった”という評価が広まっていった。クオリティは年々アップし、日本法人でも近々、PDI(納車前整備)ファクトリーも新設するという。年々増えていくデリバリー台数への対応ができる十分な最終チェック体制の確立を考えているのだ。
“スーパーカーブーム”という日本独自の文化
昨年は神宮外苑でランボルギーニディを開催し、最初のモデルの350GTをはじめとした歴代の名車を並べ、そのヒストリーを披露し、同時に最新の技術開発をアピールするため、CEOとチーフエンジニアが日本を訪れた。
日本には“スーパーカーブーム”という独自の文化があるため、ブランドのとらえられ方が、欧米諸国とは少し異なっている面がある。「ランボルギーニに乗っているというと、派手に改造して飛ばしていると誤解されることがよくあったのですが、最近になってようやく、そうでない私のようなタイプのオーナーもいると理解されるようになりました」と語るのはムルシェラゴの大好きなスタイルをガレージで眺めることが生き甲斐という私の友人である。
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