サマーランドを悩ませ続ける深刻な経営問題 15年間で11回の赤字計上、今後どうなるのか

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ある業界関係者は「日本でウォーターパークという業態を続けるのは難しい」と至極まっとうな問題を指摘する。サマーランドの年間入場者数、約100万人のうち、7~9月の3カ月間で約7割が集中する。夏場の3カ月間で稼ぎ、あとの季節は耐え忍び、通年で赤字という収益構造が続いている。

幻の自動車用レース場計画

開業当時のサマーランドの様子(東京都競馬社史より引用)

サマーランドができたのは1967年のこと。東京サーキットという民間会社が開発、運営を遂行した。当時の報道によれば、総工費30億円をかけ、自動車レース場、遊園地、公園、ヘルスセンター、屋根つき野球場からなる「文字どおり娯楽のメッカ」(1966年5月4日、毎日新聞都内中央版)を作る構想だったようだ。

目玉となるのが自動車用コース。「1周6.8キロメートルの自動車レース場、規模は鈴鹿よりやや小さいが、丘陵の起伏に富んだコースがとれるのは有利」(同)という計画のもと、建設が進められた。

だが、周辺住民からの強い要望で、ドーム型のウォーターパークを最初に建設。1967年7月に現在も残るドーム型プールが開業している。同年10月には遊園地が、翌1968年には温水プールや、屋外プール、宿泊施設を立て続けにオープンした。

当時の入場者数も100万人強と、現在とあまり変わらない。だが、こうした巨大施設を建てたことが過大投資となり、東京サーキットは開業数年で資金繰りが悪化。1970年頃に救済する形で経営に参画したのが、東京都競馬だった。

なぜ、東京都競馬だったのか。背景にあるのが当時の東京都政の方針転換だ。1967年から1979年まで東京都知事を務めた、美濃部亮吉氏が選挙公約に掲げていた公営ギャンブル廃止を断行。撤退を進めたことで、大井競馬場を所有し、貸し出すことによって得られる収入が事業の柱である東京都競馬にとって、大きな脅威となっていた。

そもそも東京都競馬は、事業の多角化策として、埋立地である大井競馬場周辺に遊園地事業進出を検討していた。そうした経緯もあり、サマーランド救済は魅力あるものに見えたようだ。最初は出資する形で、そして最終的には完全子会社化する形で経営に参画、現在に至っている。

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