安倍政権は「バブルの恐怖」を忘れていないか 80年代バブルの生成と崩壊から学ぶべきだ

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渋沢の同時代には、「渋沢資本主義」と拮抗するさまざまなライバルも登場した。福沢諭吉のイデオロギーと行動を受け継いだ、欧米型の「グローバルスタンダード」に近い路線。そして、三菱財閥の岩崎弥太郎に象徴され、独占を志向する「財閥資本主義」の路線。明治以降の日本の資本主義は、いわばこの3つのタイプの資本主義が拮抗しつつおりなすダイナミズムだったといってもよい。

そして戦後の混乱期をへて、日本にまた新しい渋沢資本主義が誕生し、定着する。その主役は、「日本興業銀行(興銀)」、「大蔵省」、「新日本製鉄(新日鉄)」だった。

戦後の資金不足の時代に資金の配分機能を握った興銀は、日本経済の司令塔となる。また大蔵省は、財政・税だけでなく金融のあらゆる許認可権を独占することで、戦後日本システムの調整役となる。そして新日鉄(70年の合併までは八幡製鉄と富士製鉄)は「鉄は国家なり」という言葉そのままに産業資本主義の頂点に君臨し、日本の財界をリードする。それを、長期の一党支配を続ける自由民主党が支えた。

80年代のバブルとは、戦後の復興と高度成長を支えたこの日本独自の経済システムが、耐用年数を過ぎて、機能しなくなったことを意味していた。日本経済の強さを支えてきた政・官・民の鉄のトライアングルが腐敗する過程でもあった。

70年代はじめのニクソンショック(ドルショック)、オイルショックによって、すでに世界経済の仕組みは大きく変わっていた。グローバル化と金融自由化という世界の新しい現実に対して、日本という国を新しくつくり変えていくべき時期が来ていた。

そしてバブル崩壊

しかし日本は進むべき道を回避した。新規参入の少ない規制に守られた社会を求める空気が日本全体を覆っていた。業態別の「仕切られた競争」(村上泰亮)を徹底する官僚の指導が行き渡っている時代でもあった。その代表を1つ挙げれば金融機関だろう。大銀行から信用金庫・信用組合にいたるまで、護送船団方式によって、一行たりともつぶれないように、金利水準や店舗数までが調整されていた。

日本のリーダーたちは、構造改革の痛みに真っ正面から向き合うことを避けた。制度の変革や、産業構造の転換を先送りしたのは、大蔵省をはじめとする霞が関官庁であり、日本興業銀行を頂点とする銀行だった。つまり戦後日本システム(渋沢資本主義)の担い手たちである。彼らは残された力を、土地と株のバブルに振り向けた。

バブルは最終的には、個人のユーフォリアにまで及ぶ。「濡れ手に粟」の儲け話を目にした人々に、借金をしてまで土地や株式に投資する癖を埋め込んだのは銀行である。バブルは日本人の気質まで確実に変えてしまった。

そしてバブル崩壊。「失われた20年」と呼ばれる長い空白期が訪れた。世界でも例を見ない長い空白期は、それ自体が、日本の何かが変わってしまったことを示していた。土地や株式で儲けようという過大な期待は薄れ、バブルを起こそうにも起こせない「デフレの時代」が続いた。しかし状況は変わった。

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