首相の権力基盤は党内支持から国民の支持へ 自民党総裁任期の歴史的変遷から読み解く
政治家に権力闘争はつきもので、自民党も党内実力者がありとあらゆる手を使って、激しく総裁の座を争ってきた。「総裁任期」もその道具のひとつであり、結党以来、時々の実力者の思惑で2年に短縮したり、3年に延ばしたりを繰り返してきた。ただし、あまりにも権力争いが激しかったため、任期を全うした総裁がほとんどいないことは忘れられているようだ。
今回、自民党は2期6年までという現在の規定を3期9年までに延ばす党則改正をすることになった。今回の見直しが今までと大きく違うのは、賛否を巡る激しい党内議論がほとんどなかったことだ。それだけ安倍晋三総裁の力が突出しているのだが、裏を返せば自民党から人材や活力が失われていることでもあり、これはこれで深刻な問題である。
権力闘争で繰り返された総裁任期見直し
1955年の結党時の自民党総裁任期は2年とされているだけで、再選についての規定はなかった。この2年という任期については最初から短すぎるという批判が出ていた。岸信介首相は退陣後、「総裁任期が2年ということは、首相の交代期が2年ごとに来ることになり、諸外国に比べて不安定だ」として、任期4年を主張していた。
当時は今日に比べると派閥の結束力が強く、総裁選のたびに激しい争いを繰り広げていた。新しい首相が誕生しても1年たつと自民党内の関心は次の総裁選に移る。よほど強い首相でもない限り、内政や外交に専念にしにくかった。
2年任期が見直されたのは長期政権となった佐藤栄作内閣の末期に近い1971年1月の党大会で、任期は3年に延ばされ再選まで可とした。この見直しを積極的に推進したのは当時、幹事長だった田中角栄だった。ポスト佐藤の最有力候補の一人だった田中は、自分が総裁になった時のことを考え、任期延長を実現したのだった。
ところが田中は金脈問題で、その次の三木武夫も総選挙に敗北して、ともに延長された任期を生かすことなく辞任した。この間も、総裁任期は権力闘争の道具となった。首相の三木がロッキード事件の解明に積極的な姿勢を見せることに多くの派閥が反発し、三木の退陣を求める挙党体制確立協議会(挙党協)が結成された。挙党協から総裁任期を2年に戻すべきだという主張がでてきた。表向きの理由は「任期3年というのは長すぎて、時代のテンポにそぐわない」というものだった。3年の任期を全うした総裁は一人もいないのにである。本音は三木に対するけん制だったのか、あるいはポスト三木を狙う福田赳夫と大平正芳が2年で交替するという密約を交わしたためともいわれているが、はっきりしない。
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