努力してもムダな仕事が「若者の貧困」を生む 大人は、高度経済成長期の感覚で物を言うな

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しかし、この時代にその考えは当てはまるだろうか。わたしは今日、このような努力至上主義を信奉することこそ、若者たちを追いつめていくと批判せざるを得ない。彼のように、企業経営者の中には少なからず、自身の成功体験もあるせいか、努力至上主義を主張する者がいる。

もちろん、努力が必要ではないと言っているわけでは決してない。わたしは努力をして「報われる労働」と「報われない労働」の2種類にハッキリ分かれることを確信しているのだ。この2種類があることを説明することなく、すべてにおいて「努力すれば報われる」と述べるのは、時代錯誤的、あるいは無責任であると考えている。

熟練を必要としない単純作業の先にあるものは

こんなアルバイト作業を想像してみてほしい。

工場で1日8時間、ベルトコンベヤーで次から次へと運ばれてくる「あんぱん」に異常がないかを見定め、淡々と白ゴマを振りかけ、ひとつ流してはまた白ゴマを振りかけて流す─―誰にでもできる機械的作業であるため、低賃金で非正規雇用のアルバイト要員が交替で従事する。熟練を要しない単純労働で、その仕事内容が本人の成長や技術獲得、将来の生活の安定にどのように寄与するだろうか。どれだけ努力をし続けても時給は最低賃金で、その作業が毎日繰り返される。

そこにどのような展望を見出せばよいのか。ワーキングプア状態からどのように抜け出せばいいのか。「一日一日を懸命に生きれば、未来が開かれてくる」と本気でその労働者に向かって言い切れるだろうか。はなはだ疑問である。

とりわけ、熟練を要しない単純労働に従事している非正規雇用の労働者は、容易に仕事を辞めていく。将来のビジョンが見えないし、生活が安定しない、なおかつ自分以外の誰もができる仕事であるため、職業への愛着・帰属意識が育まれない。つまり、働いても報われる仕事だと思えないし、自分の能力を高めていくこともできない。このような仕事が非正規雇用を中心にして増え続けている。

同じく前掲書で稲盛和夫氏は、「本当の成功を収め、偉大な成果を生むには、まず自分の仕事にほれ込むことです」と述べている。古き良き時代を生きてきたとしか言いようがない。ほれ込める仕事とは、おカネを稼ぐだけではなくて、やりがいの感じられる仕事であり、創造的な、自分の個性を多少なりとも発揮できる仕事ではないだろうか。それによって、自尊感情や社会から認められたという意識も育まれ、徐々に自信や社会人としての自負を深めていくのだろう。

端的に言って、自分の仕事にほれ込むことができない労働条件や労働環境が増えている。これらの労働環境を考えることなくして、努力が一様にすべて報われるのだという「おとぎ話」が通用する時代ではもはやないことは繰り返し強調したい。若者たちは実態を見て、冷静に先人たちの言葉を解釈してほしい。すなわち、時代が違うので、昔話に決して惑わされないでほしいということだ。

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