努力してもムダな仕事が「若者の貧困」を生む 大人は、高度経済成長期の感覚で物を言うな
高度経済成長期を支えた企業経営者の言葉から得られる教訓は、残念ながら時代遅れとなってしまった。あまりにも雇用環境が悪化し、理想や夢、将来を見通せて、報われる仕事に就ける人々は少数である。だからこそ、努力が報われようと報われまいと、最低限、普通に暮らせる労働環境を整える必要がある。
本当に努力するに値する仕事なのか
つまり、仕事にほれ込まなくても、過度な努力をしなくても、労働者が普通の暮らしを送れるようにするべきである。それこそが現代の経営者にとって必要なはずだが、ブラック企業と指摘される会社を中心に、労働者へ過度な努力を要請する。その労働者の大半は数年で離職していき、ほとんどかなわないにもかかわらず、就職時にはしばしば何かしらの「夢」を抱かせる。だからこそ、離職したり、転職した際の挫折感も大きい。
強調しなければならないのは、いま就いている労働は、本当に努力するに値するものか否かを、貧困世代が冷静に見極めることである。
別の視点から考えてみよう。
懸命に努力を重ねて、大学を卒業して就職する際に、以前よりも相当に厳しい企業の審査の目に学生がさらされる。就職活動をしても、自分の希望する企業や就労形態で働くことができない。これは当たり前のことである。もともとあるべき多くの人々が希望する安定的な働き方という「座れるいす」の数が減っているのだから。
その少ないいすをめぐって、多くの若者たちは「がんばれ、がんばれ」と就職活動で追い立てられる。そのいすに座れなかった者たちは、努力が足りなかったせいだと思い込み、精神的に追い込まれてしまう。
1960年代ごろからの高度経済成長期を考えていただきたい。企業は必死の努力を今ほど若者たちに求めただろうか。誰でもいいから企業に入ってもらい、その後に定着できるように研修体制を整えていったではないか。若者たちを大切にして、福利厚生も整え、家族形成を助けたはずである。いずれも今はない過去の話になってしまった。労働者一人ひとりの価値が大きく低下している社会をわたしたちは生きている。
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