いかに生きるかを学ぶために、いかに死ぬかを学ぶ
話が壮大になるので、まずは個人レベルの話から始めたい。
僕の行動原理のひとつは「メメント・モリ」である。モリー・シュワルツの言葉では「いかに死ぬかを学べば、いかに生きるかを学べる」となる。自分がいつか死ぬという事実を意識することで、今を有意義に生きる生き方が見つかるのだという、賢人の知恵である。
宗教を持たぬ僕は、毎日を楽しく忙しく生きる中で、自らの死を常時意識しているわけではない。だが、ふとした瞬間、たとえば寝つけなくて夜中に起きた瞬間や、酔っ払ってトイレに駆け込み鏡で自分の姿を見た瞬間などに、自らの死を強烈に意識することがある。自分が遠くない将来に死に、この記憶も、意識も、自我さえも消えてなくなるということを突然思い出し、深遠な恐怖と絶望に襲われる。
そんな発作的な恐怖がなんとか治まった後に僕がいつも考えるのは、「何をすれば満足して死ねるか」ということだ。
僕は健康に長生きしたい。おカネに困りたくはないし、多く持てるならばそれに越したことはない。新しいiPodが欲しいし、携帯電話もそろそろ買い換えたい。いい服も欲しいし、自動車だって買いたい。写真が趣味だから、いいレンズをそろえたい。
だが、そうやって何不自由なく生きられれば、僕は人生最後の日に満足して目を閉じられるか。
否、と僕は答える。
では僕は何を求めているのか。
生き甲斐だ。人生の意義だ。
僕は、自分が生きる意味を「宇宙開発の歴史に名を残すこと」に見いだそうとしている。そうすれば成仏できると思っている。
ペプシコーラの幹部だったジョン・スカリーは、「残りの人生も砂糖水を売ることに費やしたいか、それとも世界を変えるチャンスが欲しいか」というスティーブ・ジョブスの言葉に心を動かされ、アップルに移る決意をした。ビジネスマンだって究極的に求めるのはおカネではなく生き甲斐なのだ。
もちろん、そんな仰々しいことだけが人の生き甲斐ではない。僕の母は結婚以来ずっと専業主婦だった。ある時ふと、彼女の生き甲斐は僕と妹だったと漏らしたことがあった。何の裏表もない、素直な言葉だった。僕は言いようのない感動と感謝の念を覚えた。
歴史に名を残すのを生き甲斐とすることと、わが子の生長を生き甲斐とすることに、尊卑も優劣もない。実際、それは大した差ではないと思う。母も僕もスカリーも、そしてさまざまな人が持つ多種多様な生き甲斐も、生理的欲求や物質的欲求ではなく、精神的欲求を満たすことにある点で一致している。
人は生き甲斐を求める生き物だ。太った豚よりも痩せたソクラテスになりたい生き物なのだ。
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