文明の生き甲斐:芸術、科学、冒険
このように、人は「メメント・モリ」と自問し、生きる意味を考える。
同じことが文明にも言えると思う。始まってからたった5000年しか経たぬ、この人類文明の話だ。文明も「メメント・モリ」と自問するべきと言いたいのだ。
人間に死が必ず訪れるように、文明にもいつか死が訪れると考えるのは自然だろう。人類が死に絶え、知識は失われ、音楽は鳴りやみ、地球は巨大な遺跡と化す。
もちろん、われわれは文明が持続するように最大限の努力をせねばならない。だが、どんなに健康に気をつけていてもいつかは死が訪れるように、文明に不老不死を望むのは不自然だし、不可能であろう。
だから自然と「メメント・モリ」の考えが湧いてくる。文明の時間的有限性を思うときに、この人類文明が存在する意義を、考えざるをえないのだ。
もちろん、人々が衣食住に困ることをなからしめ、健康を促進し、安全を保障することが、文明の最も大切な機能であることに誰も異論はあるまい。それだけでなく、建物に冷暖房を完備し、娯楽を提供し、余暇を楽しむためのレジャーを充実させ、パソコンやテレビや携帯電話を作り、ブランド物の服やバッグを売るといったような、人々の物質的欲求を満たすことも、文明の大切な機能のひとつだ。
だが、それだけがこの偉大な人類文明の存在価値だろうか。荒涼たる宇宙の片隅の青く美しい星にこの文明が生まれた意味は、ただ人間を不自由なく生かすことだけなのだろうか。やがて後続の文明の評価を受けるとき、「地球文明は、みんなが車やテレビや携帯電話やブランド物を所有する裕福な文明だった」――それだけでよいのだろうか。
否、と僕は答える。
では僕は何を求めたいのか。
生き甲斐だ。文明の存在意義だ。
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