「人たらし」豊臣秀吉のスゴすぎる人心掌握術

「上司、部下、敵を懐柔した」秘策はこれだ!

では、秀吉の人心掌握術はいったい何がスゴかったのか。ポイントを5つに絞って解説します。

「上司と部下」はこうして懐柔する

【1】「上司が苦しいとき」に頑張り、成果をアピールする

上司がピンチの状況のときには、率先して困難な仕事を引き受けます。

織田信長も、戦場では何度も危機に遭遇しています。1570年の「金ヶ崎の戦い」では、浅井・朝倉軍の巧妙なワナにはまり、絶体絶命の状況に追い込まれました。

このとき秀吉は、「敵の追撃を一手に引き受け、信長を退却させる」という危険な任務、殿(しんがり)の役を自ら買って出ます。この「献身的行為」によって、秀吉は信長からより重用されるようになりました。

【2】「部下のミス」はあえて責めずに、心をつかむ

豊臣秀吉は、部下の失敗をあえて咎めず、逆にやさしい言葉をかけることで心をつかむのも得意でした。

1584年に徳川家康と戦った「小牧・長久手の戦い」の際、秀吉の水軍を指揮した九鬼嘉隆(くき よしたか)は、徳川方の反撃にあい、撃退されて九死に一生を得ます。

このときの失敗について嘉隆が秀吉に詫びると、秀吉は「あの状況で帰還できたことこそ、何よりの手柄である」と言って、むしろ嘉隆を称えたといいます。それに感動した嘉隆は終生、秀吉に忠誠を尽くし、「関ヶ原の戦い」では西軍に加わって最後は自害して果てました。

【3】「接待攻勢」で上客を確実に獲得する

強敵には「正攻法」で挑まず「接待攻勢」で懐柔するのも、秀吉流「人心掌握術」です。

1588年7月、秀吉は中国地方最大の有力大名、毛利輝元に上洛を命じます。すでに毛利家は秀吉の支配下に置かれていましたが、当主の輝元はまだ秀吉のことを警戒していました。

しかし、輝元が上洛すると、秀吉は輝元への「官位の便宜」をはじめ、「京都大坂の観光案内」、各界の有名人が集う「社交界」の一員に招き入れるなど、彼を厚遇します。これを満喫した輝元は以降、秀吉に服従するようになりました。

【4】イメージ戦略で「権威」を示し、「好感度」も上げる

秀吉は世間に自らの「権威」を示し、「好感度」を上げるために、「天下の一大イベント」を開催することを考えます。

かつて織田信長は、京都で盛大な軍事パレード「馬揃え(うまぞろえ)」を行ってその力を誇示しましたが、これに倣い秀吉は、京都で史上空前の大茶会「北野大茶湯(きたのおおちゃのゆ)」を主催し、権威を世間にアピールしました。

当時、茶湯は千利休(せんのりきゅう)などによって大ブームでした。この茶会は、愛好者であれば身分を問わず参加できたことから、当日は1000人におよぶ来場者で賑わうなど話題を呼び、世間一般にも広く「秀吉の時世」が意識されるようになったのです。

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