――監督としては、自分らしい作品を作っていきたいのか、それとも「大友監督はこんな作品も作る」というものを作っていきたいのか、どちらでしょうか?
両方です。どちらかというと、自分がやったことがないものをやりたいと思っている。自分らしさという意味では、結局無理をしなくても、どこかに出てくるもの。自分だけの方法論を含めて無我夢中で取り組んでいれば、タッチは作品に反映されるはず。
「毒」が自分らしさ
そこを感じて、受けとめようとしてくれる人がたくさんいる。「どこかで大友なりの毒があるはず」とか(笑)。どんな素材をやるにしても、作品にはどこかで自分なりに毒を盛り込みたいと思っている。絶対ぬるくしないぞって、そういうスタンスで作ってきたから、一筋縄ではいかないというか。そういう毒がたぶん自分らしさなのでは、と思っています。
――その、「毒を見せる」というのは、NHK時代に培われたものでしょうか?
1本の作品の完成にたどり着くためには、どのぐらいの試行錯誤を繰り返せるかという自分なりの指針があって。論文を50枚、100枚書いて「生命が大切」と言うのか、4枚の感想文で「生命が大切」と言うのかでは、当然、説得力が違ってくる。論文を50枚書くためには、取材や積み重ねがものすごく要る。どのぐらい厚く盛り込んでいけるのか、それはNHK時代から継続してやってきていることです。
フィクションの登場人物でも、表層的ではなく、本当に生きている人にするにはどうしたらいいかを考える。『プラチナデータ』でいえば、出演者にその役になってもらうためには、どういう積み重ねと、どのぐらい分厚い資料を集めなければならないか。その方法論はNHK時代からあまり変わらない。ベースはドキュメンタリー番組で培われてきたと思う。そのスタイルや思考を、フィクションを創るときに生かしているとは言えると思う。
ハリウッド留学経験で何を感じたか
もうひとつ大きいのは、アメリカ・ハリウッドでの留学経験。つまり、アングロ・サクソンたちの日常的リアリティは、徹底したプラグマティズム(実用主義)というか。それを痛感したこと。彼らは、自分の血をもって、「自由」と「権利」を勝ち取ってきた人々。うまく言えないんだけれども、それこそ、戦う遺伝子というか肉食というか、獰猛なプラグマティズムが身体の中に刷り込まれている。それを感じ取る局面が多かった。彼らを映像に映し出したときに、なんか一人ひとりの人物のリアリティであり、実存性が、まるっきり違うと感じたんですね。もちろん、良いとか悪いとかではなく、あくまで「違う」ということなんですけど。
社会や組織に依存しない個人主義といったらいいのか、それとも2本足で立っている生き物といえばいいのかわからないけど。社会の既存に違反していても、神に背かなければいい、というようなまったく違う基準を彼らは持っている。小さいころから神様と個人が契約する、という環境で育っているから、個人の信じるものに対する厚みとか年季が違う。それが、映像に出ていると思う。これは僕の「体感したこと」としか説明のしようがないんだけれども。対して無宗教のこちらはどう対抗していけばいいのか。僕にとっては、それが大きな「お題」になっている。
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