オリンピック出場者の意外な「第二の人生」 セカンドキャリアでも輝くために必要なこと

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「グアム合宿では朝6時から夜の11時くらいまで、プールで練習をしていたんです。昼休憩の1時間にプールサイドでご飯を食べて、あとは練習という日々で、本当に大変でした。先日、コーチをされていた井村(雅代)先生にお会いしたときに当時の話をしたんですけど、井村先生が『今日の練習どうだった?』と聞くと、ある選手が『死ぬ気でがんばりました』と答えたんです。井村先生が、『死んでへんやん!』と突っ込んだ記憶があるくらい鮮明に覚えているそうです」

現役時代は物流会社に勤務(ほとんど仕事はなく、シンクロをすることで会社から給料を得ていた)しており、引退後も会社に残ることはできたという。しかし、川嶋は新たな道を選択する。

「2006年に指を骨折して、国立スポーツ科学センターでリハビリをしていたときに、さまざまな選手と会う機会があったんです。サッカー、フェンシング、レスリング、アルペンの選手など。みんなケガをしているなかで、いろんな話を聞いて、ほかの競技にも興味がわきました。自分の知らなかった種目にもいろんな魅力があり、それを世に伝えられる仕事ができたらいいなと思ったんです。ただ国語が苦手でだったので、新聞や雑誌の仕事は無理だなと。消去法で映像がいいと思いました」

シンクロを引退したら映像関係の仕事がしたいという思いがテレビ朝日の関係者に伝わることになる。しかし、新卒の年齢制限が過ぎていたこともあり、関連会社の東京サウンドプロダクションに入社。北京五輪の解団式が終わった翌月に、27歳でADになった。テレビ朝日のスポーツ番組に携わるようになり、水泳とフィギュアスケートをメインに担当することになる。

シンクロを知っていることが唯一の武器

「入社したときはやることがわからなかったので、年下の先輩に仕事を教えてもらいました。忙しい業種で、特にAD時代は家に帰れないこともたくさんありました。何もできないなか、唯一褒められたのが、寝ないでもやっていけたことです。体力には自信がありましたし、コーチからいろいろと言われてきたので、根性もあったと思います。井村先生に怒られことに比べたら、たいしたことないというのはありましたね」

多忙な日々が続くも、シンクロ時代に培った体力と根性が川嶋を支えた。誤算だったのは、番組制作でも文章をつくる機会が多いことだった。

「最終的には作家さんが仕上げてくれるんですけど、ナレーションの言葉を含めて、構成を自分で書かなければいけません。文章を書くのが嫌で、テレビの世界を選んだのに、意味がありませんでした(笑)」

2010年からは自分でVTRなどを制作するディレクター的な仕事が増えて、現在の肩書は「ディレクター」だ。ADから昇格したものの、まだ「ADに近いディレクターです」と自分のことを表現する。そして、多忙な日々は続いている。

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