警察発表でも30万人以上(主催者発表では100万人以上)の参加者を集めた、2013年1月13日の同性婚法制化反対デモには、カトリック教会に近い組織だけでなく、ムスリム同胞団に近いとされるUOIF(フランス・イスラム組織連合)も参加を呼びかけていた。もちろん、個々の信徒のレベルでは、同性婚に同情的な人も多いであろうが、ユダヤ教や仏教まで含めて、主要な宗教団体はほとんどが同性婚の法制化には慎重、もしくは国民投票を要求といった、政府提案とは異なる立場で足並みをそろえている。この「文明」としての宗教の問題は、おそらく、日本人にとって一般には理解が難しいところだろう。
日本人はフランスの文化を理解できるのか
その一方で、この問題は、フランスの視点からすると、ほとんど常識的な、おなじみの対立図式に属する問題であるということも言い添えなくてはならない。要は、日本の視点からするなら、異文化を理解できるかという問題である。そこで、どのような対立図式の中で、この「文明」という話が出てきているのか、少し説明を加えてみたい。
すでに見たように、フランス革命は、刑法による処罰の対象から、同性愛を除外していた。この種のキリスト教の規範からのズレ、とりわけカトリック教会の物の考え方から国家を切り離そうとする傾向は、革命の理念を支持する共和主義者ならば支持すべき方向性なのである。現代フランスにおける結婚は、共和主義の見地からするならば、民法上の取り決めの問題であり、その法的効力については、いかなる教会も口を差しはさむべき筋合いのものではないのである(カトリック教会が結婚の登録を取り仕切るなら、それは革命以前の旧体制への逆戻りである)。
フランス市民は、地元自治体の役場に来て世俗国家の代理者たる自治体の首長が主催する儀式で、結婚の約束を確認する。そしてこの役場での儀式を通じて、結婚の法的効力が発生する。この役場での儀式のあと、教会に行こうがモスクに行こうが神社に行こうが、それは各人の私事であるが、そうした私的な催しは結婚の法的効力とはいっさい無関係である。
人は、個別の宗教の信者である前に、公共のことを考える市民でなくてはならない。同じように、同性愛者であるのか、異性愛者であるのかもまた、市民であるということの前には、本質的な属性であるとはいえない。同性愛者に結婚制度の門戸を開いたところで、異性愛者がすでに有している権利と衝突するわけでもないのだから、法的側面では問題は発生しない。むしろ少数派としての同性愛者が多数派の異性愛者に比べて、結婚を選択するという権利を奪われていることが、法の下の平等の見地から問題である。
同性婚法制化を支持するマジョリティの側の議論というのはおおよそこのようなものであり、この種の立論は、各人の私的信念の場としての教会の領域と、さまざまに異なる私的属性を持った人々が共存する公的な領域としての国家が、はっきり分けられるということを前提にしている。そして、異なる私的属性を持つ人々の共存を可能にするうえでの必須の条件が、国家の非宗教性(ライシテ)であり……というような話を、フランスのメディアでは耳にタコができるほど聞かされるのである。
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