第2次世界大戦後、フランスは、対独協力の中で自国が犯したユダヤ人差別について反省する一方で、同性愛者については差別的な扱いが続く。パリ解放後の1945年2月の政令でもなお、ヴィシー政権による刑法334条の改正は「批判の余地」がないとされていた。1960年になっても、同性愛を、アルコール中毒や人身売買と並ぶ「社会の害毒」と見なす政治家がいた。その結果、刑法330条が改正され、「性を同じくする個人」との「自然に反する行為」について、「6カ月から3年の懲役」または「1000フランから1万5000フランの罰金」が科されることになった。
同性愛者は精神疾患に分類された
同じくこの時期は、同性愛を、精神疾患と見なす考えが世界的に普及した時期でもある。世界保健機関(WHO)の定める疾病および関連保健問題の国際統計分類(ICD)は、疾病の分類方式として世界で最も広く用いられているものの1つであるが、1940年代後半に作成された第6版以降、同性愛が精神疾患として扱われるようになった。同性愛は、刑法上、反社会的な「害毒」とされると同時に、医学上は精神疾患と分類されるようになったわけである。
こうした動きに対し、フランスでは、1968年の5月革命の余韻が冷めやらぬ中、同性愛革命行動戦線(FHAR)が結成され、女性、男性の同性愛者のグループが共闘することになった。1972年には、同性愛について、かつてヴィシー政権が21歳と定めた、性行為について同意する能力があると法律上認められる年齢が、18歳に引き下げられる。
何といっても、フランスにおける同性愛者の地位向上にとって大きかったのは、1981年に成立するミッテラン社会党政権であった。ミッテランは、まだ大統領候補であった1980年4月の段階で、同性愛を犯罪視する法律は廃止すると明言した。1981年は、同性愛者による最初のデモ行進が、同性愛者抑圧反対緊急委員会(CUARH)によりパリで組織された年でもあった。このデモ行進が後のゲイプライドの源流になる。
また、警察による同性愛者の監視や、同性愛の疾病としての分類は受け入れがたいという見解を、ミッテラン政権の閣僚たちが述べたのもこの年である。翌1982年7月27日には、当時のロベール・バダンテール法相らの提議によって、ヴィシー政権以来、「自然に反する行為」として同性愛を犯罪視してきた刑法の条文が廃止される。フランスの同性愛者の間では、7月27日を毎年記念すべき日と考える向きも多いようである。
ジョスパン首相の下で変わり始めた
1993年から94年にかけては、かつてナチスの収容所に入れられていたピエール・セール氏が、自らの経験をラジオ番組や書籍で証言し、同性愛者であったがゆえに収容所送りになった人々の存在が広く知られるようになった。対ナチス抵抗運動をめぐる言説が国家の正統性と深くかかわっている戦後のフランスにおいては、収容所に送られた人としての立場を公的に認められることを通じて、同性愛者に対する偏見の是正を社会に広く訴える意味があったと言える。
さらに、1999年には、民事連帯契約(頭文字からパックスと呼ばれる)法が社会党出身のジョスパン首相の下で成立し、同性カップルを含め、税控除や各種の公的扶助、住宅関連などで、結婚ほど堅固な権利義務関係は不要だが、事実婚よりは強い法律上のつながりを希望するカップルが利用する制度となった。
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