儲かる漁業をつくれ! 元伊藤忠社員の挑戦 新世代リーダー 立花貴 漁師
突然の解任劇
「当時は、いいビジネスモデルをつくることだけを考え、マーケティングとか、商品戦略とか、頭でっかちのことばかり考えていた」。澤田は自分に「こういうものを売りたい」という熱意や覚悟、さらには「なぜ売りたいか」という理念が肝心だ、と教えたかったのだ、と、のちに立花は気づく。だが、このときは理解できなかった。
全力で働いた結果、「エバービジョン」を利用してくれる顧客の飲食店数は2万店舗を超え、社員スタッフは総勢40名となり、売り上げは20億円弱になった。だが、必死に仕事をしながらも、このままでは自分の理想に近づけないという、限界めいたものを感じていたという。「このままでいいのか」「本当は、自分は何をしたいのか」。
衝撃的な出来事が起こったのは、そんな矢先だった。10年1月の仕事始めの日。社長としていつものように年頭のあいさつをするつもりだったが、ミーティングの冒頭で突然、取締役から切り出された。「申し訳ないが、社長を辞めてほしい」。突然の臨時取締役会での社長解任劇だった。
相次ぐ増資で、立花関連の株主持ち分は33.4%を割り込んでおり、すでに立花のオーナー会社ではなくなっていた。多額の借金だけが残り、文字どおり、奈落の底に落ちた思いがしたという。
だが、解任されたその日の夜には、なぜか「ありがたいな」という気持ちになっていたのだという。怒りがすべて静まったわけではなかったが、「一から出直せばいいじゃない」。という妻の助言に救われた。ほとんどすべてがリセットされた瞬間だった。
大震災は、約1年後、再起しようとしているときに起きた。そのとき立花は東京にいた。実家がある仙台・高砂は、海から約3キロ。通常の地震なら津波など来る距離ではないのだが、「3・11」では津波は実家の直ぐ近くまで押し寄せていた。幸い、母や妹など、家族の安否は避難所で確認できたが、避難所の状況は、それはすさまじいものだった。すべてが混沌としていた。
「なんとかしなくては」。その瞬間から、立花は無我夢中で働き出した。仙台の実家を拠点に、毎日あちこちの避難所を回った。東京から物資を持ち込んだり、炊き出しを手伝ったり。東京と仙台をクルマで往復する生活が始まった。
運命を変えた「2つの出会い」
県内の避難所を回る立花と、雄勝を結びつけたのは何か。突きつめれば、「2つの運命的な出会い」があったからだ。1人は雄勝中学校の佐藤淳一校長だ。知人の紹介で会ったことがきっかけだ。雄勝は、漁業の町だが、硯(すずり)で使われる石の産地としても有名だ。今年10月にリニューアル成った東京駅には、以前から雄勝の石が使われている。
だが、雄勝は、仙台はもとより、石巻の中心部からも遠い。震災後、学校給食は再開されていたが、依然パンと牛乳だけ。避難所としては支援の手が薄い場所の1つだった。佐藤校長は「この食事では子供たちの体がもたない。善処を」と求めていたが、「特別扱いはできない」と断られていた。
佐藤校長は、立花にも「子供たちに腹いっぱい食べさせてあげたいんです」と訴えた。震災後すぐに行われた雄勝中学校の入学式で、新入生が書いたという「新入生代表の誓い」を佐藤から手渡され、読んでいるうちに、ボロボロと涙がこぼれてきたという。
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