ちょっと意地悪されただけであっさりと死んでしまった桐壷の更衣や、嫉妬に燃えた六条御息所の生霊に取りつかれて次々と命を奪われた女たちなど、妙な死に方をした平安期の女性の例はやまほどあるが、それでも指から血を流して死ぬというのは相当まれである。しかも、どの注釈本を読んでも、自らの指を噛みちぎって血を流したという解釈になっている。まさにホラーだ。
大昔に書かれた作品だからか、登場人物が実在しているかのように論じられるが、この話はフィクションとして受け止められるべきだろう。前述の芥川の「鬼」が女の親戚だったのと同様、梓弓の女の死も本当の死ではなく、何かのメタファーなのではないか(と思いたい)。
精一杯の言葉が相手に届かない切なさ
自由奔放に生きた清少納言のような女性もいたが、平安時代では生活も恋愛も男性が主導権を握っていた。男が忍び込んで来ないと恋が始まらない、次の日に手紙を送ってこないと恋愛が成立しない。だから歌に返事をせずに男性が消えたとたん、その恋愛も、そしてその恋愛によって成り立っていた女性の人生も意味をなさなくなってしまう。
「わが身は今ぞ消え果てぬめる」という女の最後の言葉は、言葉が相手の心に届かなかった切なさがまさに命取りになるということを物語っている。昔の人にとって歌は真剣勝負。命と同じぐらい重かったのだ。
自らの命を愛に捧げた女性の言葉の余韻に浸っていたちょうどそのとき、ふと思い出したことがある。結婚するはずの男はどうなったのか?
違う女を狙うという選択肢もあったはずなのに、長い年月をかけて一途に思いを伝えてきた男。好きな人とやっと結ばれると知り、その日はきっと朝からうずうずしていたに違いない。そして、「今宵あはむ!今宵あはむ!」と思わず口ずさみながら、軽くスキップして彼女の家に向かった。だが、門を叩いても返事をする者がいない…。
無残な姿になった女を見かけた通行人、妻の死を知らずに都の女のところへ帰って行く夫(断定)、忽然と姿を消した女を探すもう一人の男――。色々なストーリーが頭に浮かぶ。しかし、どれも悲しい物語ばかりだ。後世に歌として残る恋愛は、とびきりスキャンダラスで美しかったに違いないが、まさに命がけだ。どんなに男を追いかけても簡単に死なない現代人に生まれたことに感謝するしかない。
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