モス、社長を退く櫻田厚氏がすべてを語った 創業、ブランド確立、創業者の急逝、混乱…
――現場出身ではない中村氏が社長に就くことに、FCオーナーから反対はなかったのか。
毎年3月中旬にモスバーガーチェーンの事業方針説明会を開催している。本部を入れて500~600名のFCオーナーが出席するのだが、そこでは実際話題になっていた。43年もやっていると、私よりオーナーを知っている人はいない。仕方がない。みんなが寄ってきて「さみしい」とか「もっとやってくださいよ」と言われるが、これは心情がそういうことばになっている。
でも、私が個人で櫻田商店をやっているわけではない。FCも本部も、次の世代を創造していかなくてはいけない。どこかで捨てるものと残すものを仕分けしていかなくてはいけない。今は踊り場だ。
創業者の急逝で訪れた混乱、そして社長に
――1997年に叔父で創業者の櫻田慧氏が急逝。その後、経営の混乱を経て社長に就任した。当時の心境は。
かなりリアルに言いましょうか。創業者は健康に気を遣っていて、人にも「健康は大事だよ」と言っていた人。にもかかわらず、くも膜下出血で急に亡くなった。
病気になることは考えられない人だったのでビックリしたというのが当時の状況。ショックだった。5月19日に倒れて、24日に亡くなるまでの5日間、社内や加盟店は「これ、どうやって発表する」と蜂の巣をつついたような状態になっていた。
当時、私は(海外事業担当の役員として)台湾に行っていた。ただ、年に1回ぐらい帰ってきたときに、問題はかなり見えていた。1人のスーパーマンによって秩序が保たれており、社内、FC、取引先はついていくだけという体質だった。
実は、創業者が存命のころ「会長がなんでも意思決定をして指示を与えるという会社だと誰も人が育たない」と進言した。創業者は「そのうち俺がという人間が誰か出てくるから。日本のことは心配せずに赤字の台湾を立派な業績にしろ」と楽観していた。結果、やはり心配の通りになった。
誰もリーダーシップをとる人間がいなかったので、そのときは来るときが来たなとちょっと冷ややかだった。ごたごたがあったのは当然で、加盟店から、「自分たちの利益はこれしか取れていない、本部が取り過ぎじゃないか」といった要求が噴出した。
私は会社を離れて台湾に住み、気楽にストレスなく過ごしたいとも思っていた。当時は専務とか私より上位の取締役がたくさんいたが、「自分がやる」というくらい責任がある人がいなかった。「厚さんやったほうがいいよ」と何人かの取締役が私のところに来た。
受けるべきか、モスを出るべきか、最後の最後まで悩んだ。明日取締役会で結論を出さなければいけないという日、池上本門寺に行って、境内のベンチで夜中3時ぐらいまで「このまま断るとモスはどうなるのだろう、それも責任がないな」「でもやっぱりこれを立て直すのは普通じゃ無理だよな」と考えた。最終的には、亡くなった父や、創業者のことを思い「こういう流れはもしかしたら受けるというのが正しいのかもしれない」と決めた。
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