『暮らしのおへそ』編集ディレクターが"苦い"経験から実感!「認められたい私」を手放して人とラクにつながるまで
これじゃあ、病院でパジャマを着たまま「僕は会社を経営していてね」と自慢しているおじさんと変わりがありません。
「褒められる」までいかなくても、「〇〇さんってこういう人だよね」と暗黙のうちに認められている環境に属していると、心が落ち着きます。反対に、誰かにとって、自分がどういう人間なのかが明確になっていないと、私自身の足場がないようで落ち着きません。
別に何者かじゃなくたっていいじゃない?とわかっているのに、つい「何者か」にこだわってしまいます。
還暦を過ぎるころには気にしなくなった
実は、あの免許を取ってから10数年経ち、還暦を過ぎるころから少しずつ「何者か」をそれほど気にしなくなってきました。
毎朝30分ほどウォーキングをしていると、知らず知らずのうちに体力がついて、普段の生活の中でも歩くことが億劫(おっくう)でなくなります。毎朝柔軟体操をしていると、私は体が極端に硬かったにもかかわらず、前屈で手が床にペタリとつくようになりました。
疲れにくい。体に柔軟性がある。たったこれだけで、ちょっと大変なことがあっても「よし!」と自分の力を信じて頑張ることができます。
若いころは三日坊主で、何事も長続きしなかったけれど、コツコツ続ければ体は変わる、と実感してから、「継続」という力を信じることができるようになりました。
若いころ、私が「何者か」にこだわったのは、自分に自信がなかったからなのだと思います。ありのままの自分に自信がないから「私はこんなことをしてきたのよ!」と大きな声で告げて認めてほしくなる……。
でも、歳を重ね、コツコツと続けてきたことが体の中に蓄積されてきた、と実感できれば、自分を信じることができます。つまり「誰か」に認めてもらわなくても、自分で自分を認めてあげることができるというわけ。
人生後半になればなるほど、この「自分で認めてあげられる分量」を少しずつ増やしていくことが大事なんだよなあと思います。
自分に似合う服を知っていれば、ワイドパンツが流行っていても「ストレートのほうが、私の体型はすっきり見える」と、周りに流されずに選び取ることができます。
みんなが誘い合ってキラキラとしたレストランに出かけていっても「私は疲れやすいから、外食は年に数回だけでいい」と、羨(うらや)ましがらずにすみます。



















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