「浅井長政の裏切り」で絶体絶命の信長を上機嫌にした秀吉の"一言"

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金ヶ崎城跡(写真:papa88 / PIXTA)
金ヶ崎城跡(写真:papa88 / PIXTA)
NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、天下人・豊臣秀吉の弟である豊臣秀長を中心に、戦国時代のど真ん中で天下統一を果たした兄弟の軌跡にスポットライトがあてられています。今回は、浅井長政の裏切りで危機に瀕した信長を支えた秀吉の活躍を紹介します。
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織田信長は越前の大名・朝倉義景を討つ

元亀元年(1570)4月20日、織田信長は越前の大名・朝倉義景を討つため出兵します。信長は同年1月下旬、東国・西国の諸大名に対し、上洛を促していましたが、朝倉氏は上洛してこなかったのです。

朝倉氏の不参は、信長が推戴する足利義昭(室町幕府15代将軍)への反逆と見なされ、追討の口実を与えることになったのでした。信長は義景を討つことを公にせず、当初は若狭国の武田氏の重臣・武藤友益を討つとしていました。

約3万の織田軍は、4月22日には若狭国に入りますが、25日に越前の敦賀表に侵入します。敦賀に到達した信長がまずしたことは「懸けまはし御覧じ」(『信長公記』)、つまり、自ら馬を駆り、土地の様子を眺め、どこをどう攻めるべきか調査したのでした。

その結果、信長が下した判断は、手筒山城(福井県敦賀市)を攻めるということでした。城には寺田采女正ら約1500人が籠もっていたとされます。

同城は「高山」にあり、堅固な城でした。攻めるに困難な城だったようですが『信長公記』によると、信長はしきりに「攻め入るべき」の旨を指令したと言います。

よって、軍兵は命を捨てて、粉骨砕身、城に攻撃を加えたのです。その結果、敵首を1370も挙げる成果が出ます。

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