「浅井長政の裏切り」で絶体絶命の信長を上機嫌にした秀吉の"一言"
織田信長は越前の大名・朝倉義景を討つ
元亀元年(1570)4月20日、織田信長は越前の大名・朝倉義景を討つため出兵します。信長は同年1月下旬、東国・西国の諸大名に対し、上洛を促していましたが、朝倉氏は上洛してこなかったのです。
朝倉氏の不参は、信長が推戴する足利義昭(室町幕府15代将軍)への反逆と見なされ、追討の口実を与えることになったのでした。信長は義景を討つことを公にせず、当初は若狭国の武田氏の重臣・武藤友益を討つとしていました。
約3万の織田軍は、4月22日には若狭国に入りますが、25日に越前の敦賀表に侵入します。敦賀に到達した信長がまずしたことは「懸けまはし御覧じ」(『信長公記』)、つまり、自ら馬を駆り、土地の様子を眺め、どこをどう攻めるべきか調査したのでした。
その結果、信長が下した判断は、手筒山城(福井県敦賀市)を攻めるということでした。城には寺田采女正ら約1500人が籠もっていたとされます。
同城は「高山」にあり、堅固な城でした。攻めるに困難な城だったようですが『信長公記』によると、信長はしきりに「攻め入るべき」の旨を指令したと言います。
よって、軍兵は命を捨てて、粉骨砕身、城に攻撃を加えたのです。その結果、敵首を1370も挙げる成果が出ます。



















無料会員登録はこちら
ログインはこちら