「浅井長政の裏切り」で絶体絶命の信長を上機嫌にした秀吉の"一言"
それが江戸時代中期に書かれた読本(小説)『絵本太閤記』(以下、『絵本』と略記することあり)になると、秀吉軍の活躍が詳細に記述されているのです。もちろん、信憑性は低いですが……。
『絵本』においては、秀吉は「三千餘人」で金ヶ崎に留まったとあります。そして「奇計を以て大軍の形勢を成」したというのです。つまり、自軍を大軍に見せかけ、朝倉軍を騙したのでした。
かがり火を焚き旗を立て並べた
その方法は、金ヶ崎の左右の山にかがり火を多く焚くというもの。また、秀吉は城中に旗を立て並べたのでした。かがりの光が空を照らし、多くの旗が翻る様は「六・七万の軍勢」がたむろしているように見えたようです。
朝倉方は信長は未だ退かずと見て、追撃の手を緩めたのでした。野陣している朝倉軍を秀吉の軍勢は夜討ち。慌てた朝倉軍は敗走したと『絵本』にはあります。しかしこれは前述したように、信憑性は低く、創作と見るべきでしょう。
さて、江戸時代初期の旗本・大久保彦左衛門の著作『三河物語』には、徳川家康もこの越前攻めに参加していたとあります。
ところが、信長は家康を捨て置いて、何も知らせずに撤退してしまったと『三河物語』には記載されています。夜が明けてから「藤吉」(秀吉)が案内するとして、共に退却したというのです。
いわゆる「金ヶ崎の退き口」は史料によって記述に違いがあり、謎もあります。信長は秀吉だけでなく、明智光秀や池田勝正らも残したとする見解もあります(一色藤長書状)。それはさておき、信長はいち早く退却し、虎口を脱することができました。
(主要参考文献一覧)
・桑田忠親編『豊臣秀吉のすべて』(新人物往来社、1981年)
・藤田達生『秀吉神話をくつがえす』(講談社、2007年)
・池上裕子『織田信長』(吉川弘文館、2012年)
・渡邊大門『秀吉の出自と出世伝説』(洋泉社、2013年)
・桐野作人『織田信長 戦国最強の軍事カリスマ』(新人物文庫、2014年)
・濱田浩一郎『秀吉と秀長 天下統一の軌跡』(内外出版社、2025年)
記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
印刷ページの表示はログインが必要です。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら



















無料会員登録はこちら
ログインはこちら