韓国・金泳三元大統領が死去、その功罪とは? 反軍部独裁・民主化運動に献身

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長期間の軍部独裁政権が経済分野で残した悪弊やひずみを解消しようとしたのは、今でも韓国内で評価されている。たとえば財閥との政経癒着や地下金融、国民に不利で合理性のない規制などの慣行やシステムを、「民主化」の名の下に全面的に切り替えようと努力した。

その指針となったのが、「新経済」(新経済5カ年計画)という経済政策であり、その嚆矢が「金融実名制」だった。「金融実名制なしには、政治と経済の黒い癒着が断絶できず、活力あふれる資本主義も花開かない」と、強い意志を持って実行した。1996年にはOECD(経済協力開発機構)に加盟、先進国入りを宣言する。

金泳三氏の「新経済」は、政府主導の経済から民間主導の経済への道を切り開くものだった。「規制を緩和し、企業は自由に活動できる経済」がその核心だった。規制緩和によって民間の活力を増し、それが経済運営の効率化と生産性を高めようとするものだった。

未熟な経済政策が金融危機への導火線に

実際に、任期中の経済成長率は1995年の9.57%をピークに平均で7%後半と相対的に高い成長を実現した。とはいえ、その高成長率に惑わされ、経済構造には政策の不備による副作用が蝕みつつあった。開発独裁と言われた国家主導の経済政策を変えようとすれば、政府主導から民間主導への過渡期に必要とされる十分な補完措置が少なかった。

特に、よかれと考え実施した金融機関からの借り入れ規制緩和は、財務の健全性が当時から低かった韓国企業の借り入れを急激に増やし、一方で政府は金融の監督・管理機能を失うことになった。当時、韓国の主要企業の債務が資本の4倍以上に達していたほどだ。これが1997年のIMF危機の導火線となったとも言える。

OECD加入も、「早すぎた加盟」と言われた。「世界化」を打ち出し、国家競争力の向上を狙ったものの、OECDへの加盟以外には具体策はほとんどなかった。しかも、OECDに加盟するということは、国内市場の開放といった大幅な経済自由化と対外開放が伴うことを意味する。だからこそ、金融体制を外資からも耐えうるように整備し、また企業経営などの透明性向上など国際基準に耐えうるような政策も同時並行しなければならなかったが、それがなかった。

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