「口ごもりながら話す」姿が胸を打つ。墨俣一夜城の築城に一役買った秀長の説得術《大河・豊臣兄弟!》
当時、秀吉(同書には藤吉郎と記載)は信長に仕えて「百人足軽頭」を拝命し「立身」していましたが、中村に姿を現すのです。実家に帰り、弟の小一郎(秀長)に向かい、兄・秀吉は次のように「懇願」するのでした。「今、私は百人頭となり50貫文の給地を宛てがわれている。しかし、それがしは、頼みとする連枝(兄弟)などは1人もいない。乱世に名を後世に残そうと欲すれば、武者奉公する他にはない。鍬を捨てて、我に力を借してほしい」と。
この秀吉の懇願に対する秀長の返事は記載されていませんが、同書には続けて、小一郎は「温顔奸邪の心、更に相無し」とあります。秀長は、穏やかな温かみのある顔つきで、邪心はなかったということです。秀長は兄の頼みを受け入れ、関心のなかった武者奉公をすることになります。
墨俣一夜城を築城にも貢献…
当時、秀吉は墨俣に城(砦)を築くために苦戦している最中でした。墨俣に織田方が砦を築こうとすると、美濃斎藤氏の襲撃を受け、頓挫してきたのです。秀吉はその要因を「敵方からの攻撃が容易い。土塁を築いただけでは、攻撃されやすい」(『武功夜話』)ということに求めます。
よって隠密のうちに、墨俣に入り、馬柵・鹿垣を何重にも築き、防御力を高めることが肝要との結論に達するのでした。しかし、馬柵の用材を大人数で大量に運び込む必要があります。そこで秀吉は蜂須賀小六(尾張国海東郡蜂須賀郷を拠点とした国衆)や前野将右衞門(小六と義兄弟の契りを結んでいた)に合力を依頼するのです。
その依頼の場には、秀吉は秀長を同道していたと同書にはあります。秀長は「巧言」(口先だけでうまく言うこと)などはなく「訥々」(口ごもりつつ話す)とした口調だったようです。
「それがしのような者がおこがましい次第です。今度、兄者は、墨俣築城を引き受けたからには、それがうまくいかなければ、一命を投げ出す覚悟。その覚悟でお頼み申す次第。今度の大役成就のため、御両人の助けをお願い申し上げます」と謙遜しつつ、秀長は懇願したのでした。


















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