「もうお前のおやじに金は渡しとんじゃ」 朝ドラ「ばけばけ」売春禁止も"なみ"のような遊女がいた理由
そのことは、実は政府もよくわかっていた。そのため、この「娼妓解放令」には抜け道が作られていた。
解放された娼妓が本人の意思で希望した場合は、鑑札を与えて娼妓を続けることを認めたのである。結果的には、政府公認の売春婦である「公娼」はその後、増加している。身売りをする女性を減らすという目的から言うと、解放令の意味はまったくなかったと言っていいだろう。
ただ建前だけの解放令で、売春自体が禁止されることはなかった。というよりも、政府も最初から、そのつもりはなかったのだった。
では、なぜそんな発令をしたのかといえば、それはひとえに「諸外国の目を気にしたから」にほかならない。
遊郭での遊びは、外国人にとって人身売買以外の何ものでもない。そんな国を文明国と認めて、対等に付き合っていくことなど到底できない――とも、思われかねない。
そうした事態は、欧米諸国との不平等条約の解消を目指す明治政府にとっては、非常に都合が悪いことだった。
日本の遊郭が国際的に非難された
実際にこんな出来事があった。
明治5年7月、ペルーの船、マリア=ルース号が横浜港に入港すると、そこから1人の中国人が脱走。イギリスの軍艦に保護された後、日本に引き渡されるという事件があった。
中国人が奴隷の待遇を受けていることがわかると、日本は奴隷の輸出を問題視して、ペルーへの引き渡しを拒否。裁判へ持ち込まれたが、日本が勝訴し、国際意識の高さを見せつけた。このときの日本の対応は非常に立派なものだと言えるだろう。
だが、裁判のときにペルー側から「日本にも遊女・娼婦がおり人権が侵害されている」と批判されてしまった。勝訴はしたものの、国際的な注目が集まる裁判で、日本の遊郭がクローズアップされたのである。
その批判の声に追い立てられるように「娼妓解放令」を出したというのが、ことの真相である。対策を行うポーズ自体が重要だったため、建前に終わったのは、むしろ当然のことだった。
明治政府はいつでも国民ではなく、欧米人のほうを向いて、さまざまな改革を行っていたのである。
【参考文献】
黒岩比佐子『明治のお嬢さま』 (角川選書)
柴田宵曲『明治の話題』(ちくま学芸文庫)
刑部芳則『洋服・散髪・脱刀 服制の明治維新』(講談社選書メチエ)
瀧井一博『文明史のなかの明治憲法』 (講談社選書メチエ)
記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
印刷ページの表示はログインが必要です。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら


















無料会員登録はこちら
ログインはこちら