「経営の神様」にならなかった丹羽宇一郎氏となり損ねた永守重信氏、2人の経営者の"去り際"に透ける決定的な差

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「経営の神様」になろうとしなかった丹羽氏の訃報に接して思い起こされるのが、社長就任翌年の1999年に断行した、伊藤忠再生を懸けた決断である。

90年代後半、伊藤忠はバブル崩壊後の不良資産を大量に抱え、経営は深刻な局面にあった。業界内では「沈没寸前」とさえささやかれ、問題を先送りする誘惑も強かった。

98年に社長に就任した丹羽氏が最初に取り組んだのは、そうした負の遺産の整理だった。短期的な業績悪化を覚悟のうえで、約4000億円規模の不良資産を一括処理するという厳しい選択に踏み切った。

00年3月期、伊藤忠は3000億円超の特別損失を計上し、最終損益は約883億円の赤字となった。丹羽氏は役員報酬を1年間、全額返上することを決めた。

無給宣言をした際、丹羽氏は「妻に叱られました」と語っている。創業者でもオーナーでもないサラリーマン社長らしい、飾らない一言だった。

役員報酬「全額返上」が生んだ成果

丹羽氏は、伊藤忠の源流が近江商人にあることを強く意識していた。売り手よし、買い手よし、世間よしという「三方よし」の考え方は、伊藤忠の企業文化の根底に流れるものであり、社会との関係の中で存在する企業であることを強調していた。

トップ自らが責任を引き受け、痛みを引き受ける姿勢は、そうした近江商人の精神を現代の経営に引き寄せる試みでもあった。

この徹底した後始末は、やがて成果を生んだ。翌期、伊藤忠は業績を大きく回復させ、705億円という当時の過去最高純益を記録する。厳しい現実を直視し、逃げずに整理することが、結果として組織の再生につながった。

丹羽氏の歩みは、経営の現場にとどまらない。10年、民間出身者として初めて駐中国大使に就任すると、日中関係が緊張する中でも現実的で粘り強い外交を展開した。尖閣諸島問題などで関係が冷え込む局面においても、元商社マンらしい対話重視の外交を貫いた。

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