「経営の神様」にならなかった丹羽宇一郎氏となり損ねた永守重信氏、2人の経営者の"去り際"に透ける決定的な差
日本固有の暮らしに根ざした信仰は、山、川、木、石など万物(すべてのもの)に神性が宿るとする「八百万の神」の教えに基づく。この世界観の中で育った日本人は、卓越した功績を残した人間もまた、「神」の領域に達しうると考えてきた。
現代の若者たちが無意識のうちに使っている「神対応」や「神ってる」などの言葉にも、ベースにはこのような日本独自の「神」文化があると考えられる。
名経営者が「神様」と呼ばれる理由
そもそも「宗教」は、明治期に西洋の“religion”を翻訳する語として導入されたため、厳密に対応する日本語は存在しない。なお、日本語の「神」は、唯一絶対の創造主を指す一神教の“God”と同一ではない。自然や人の営みに内在し、ときに人間そのものも含みうる存在を指す点で、日本の「神」はより広く、比喩的に用いられてきた。
「神」を唯一の絶対的存在とするキリスト教やイスラム教を信仰する外国人は、日本の神社を観光の対象として受け入れても、信仰としては人間を祀る行為に違和感を覚える。とはいえ、世界の主要な宗教には、人を理解するうえで重要な共通点がある。それは「人間には限界がある」という前提である。
仏教の「諸行無常」は、あらゆる存在がつねに変化し続け、いかなる状態や成果も固定的でないことを示している。人が得た成功や地位も、永遠に保持できるものではない。
ヒンドゥー教は、インドで発展してきた複数の神を持つ多神教で、単一の教義によらない幅広い世界観を持つ。その中心にあるサンスクリット語の「カルマ」は、「自らの行いは、良いことも悪いことも、いずれ自分に返ってくる」という因果応報の法則を指している。
神道では、自然現象や社会の秩序を動かす力を「神」と呼ぶ。そこには先祖や、歴史的な功績を挙げた人物の霊が含まれることもある。
ただし、それは人間が神と等しい存在になったという意味ではなく、あくまで人間の知恵を超えた働きの象徴として捉えるものである。こうした感覚の延長として、優れた経営者を「経営の神様」と呼ぶ表現が定着したと考えられる。


















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