「意味深な"桜の花びら"のシーン」「自分だけを『清廉潔白』には描いていない」 伊藤詩織氏《"波紋"のドキュメンタリー映画》を見て驚いたこと
映画の冒頭、桜の花びらが川を流れていく映像がある。事件が起こったのは桜の季節で、そのため伊藤はしばらくの間、桜を見ることすらできなかったと映画で語られる。桜がさらさらと流れていく映像の意図を伊藤はパンフレットで述べているが、その意図以外にもさまざまな感情を喚起させるような気がする。
たとえば、桜は日本の国花でもあって、国家権力――警察や司法による事件への対応に彼女が果敢に闘いを挑んだというイメージも浮かぶ。
また筆者はこの映像に、ミレーの絵画「オフィーリア」を想起した。これはシェイクスピアの『ハムレット』の一場面を描いたものだ。
デンマークの王子ハムレットの恋人だったオフィーリアは、ハムレットの突然の心変わりによって心を壊し、川で花を摘みながら溺死してしまう。オフィーリアはハムレットに覚えのない貞淑を疑われ、「尼寺へ行け」と突き放される。ハムレットはある事情で自分の本心を隠して行動しているのだが、それに恋人を巻き込んでどうする。
「彼女だけが清廉潔白」という描き方はしていない
川を流れるオフィーリアは、男性優位社会の犠牲者そのものだ。だが伊藤詩織はどうか。
彼女は川に流されない。流されるのは桜だけだ。男性優位社会や、ある種の権威が優先される社会に流されることを毅然と拒み、その流れに逆らって泳ぎ続けたのだ。そしてそのがむしゃらな行為を隠さず、映画の中にところどころ残す。
前述した、捜査員Aとの会話然り、突撃取材のとき走りやすい靴を履いてこなかったという、脇の甘さを批判されそうな部分も残している。
『Black Box Diaries』は伊藤詩織のナラティブではあるが、あたかも彼女だけが清廉潔白であるという描き方をしていない。編集スタッフとして本作に参加した、映画監督の山崎エマの眼差しが入っているからだろうか。



















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