殺意を抱くまで追い込まれる介護離職の過酷 突然降りかかる難題に、企業は備えているか
9年前。離職を決意した外山さんは、尊敬する上司に会いに行った。涙を流しながら、「妻を殺し、自殺するところまで追い詰められた。仕事を辞めようと思います」と切り出した。すると上司は「介護はおカネがかかる。ほかに働ける部署を探すから」と言ってくれた。
異動先は商店街の仏壇店で年収は半減したが、勤務時間は9時半から18時までで介護に時間を割くことができる。仏壇店の閉鎖後は地域推進担当として、地域に貢献し交流を深める業務に従事。定年後も嘱託社員として勤務を続けている。4年前に妻は要介護5となり介護の負担は増しているが、「仕事があるから続けられる」と言い切る。
介護に理解のない職場の場合、仕事を続けることは困難になる。山梨在住の廣瀬仁史さん(53)は、介護離職を2度経験した。要介護4の母親(88)と、生まれつきの精神疾患を持つ妹(50)との3人暮らし。長年勤めた会社が経営悪化で倒産後、10年前に契約社員として部品メーカーで働き始めたことが転機となった。
多いときで月5~6回、母親や妹の調子が悪くなると、仕事中でも迎えに行かなければならない。別の日にサービス残業でカバーしても、上司からは「うちは慈善事業じゃない」と嫌みを言ってくる。ある日、「これにハンコを押して」と転勤承諾書を上司に差し出された。介護があるから転勤しない条件で入社したと断ったら、「じゃあ、こっち」。解雇通告書だった。やむなく退職を選んだが、その後に正社員として再就職した会社でも介護に理解がなく、つらくなって離職した。
親を殺して、僕も首を吊ろう
それから3年間、パートを8回も転々とした。仕事が見つからないときは、「親を殺してしまって、僕も首を吊ろうと何度も思った」(廣瀬さん)。何とか手取り10万円を稼ぎ、母親の年金8.5万円、妹の障害者基礎年金6万円を足しても生活はギリギリ。田植えから収穫の時期は、家の田んぼの手入れで朝4時起きの生活を続ける。
今年4月からは昔の上司の紹介で、金属加工業のパート勤務に移った。「今の職場は介護に理解があり、有給休暇も取れる」(廣瀬さん)。37歳の時に母親が脳血栓で倒れて以来、ずっと介護を続けてきた。「20代の時に描いた人生設計が狂い、30代で人生の奈落の底に落とされた。職場の理解を得られず、ハンコ1つでこんなに人生が変わってしまうとは」と振り返る。
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