"現存する最古の洋食屋" 銀座・煉瓦亭のメニューはなぜ古くならないのか? 130年のレシピに施す《客に気づかれないプラスチェンジ》の妙技
そこで考えたのが、仔牛のコトレッタ(仔牛のパン粉焼き)と天ぷらをかけ合わせる方法だ。ディープフライと呼ばれる揚げ方で、とんかつのルーツである、今のポークカツレツができあがった。開業4年後の1899年のことである。
「うちの店は西洋料理店で天ぷら鍋を初めて使った店といわれているんです。コトレッタだと、乾燥パン粉をつけてバターで揚げ焼きするので、しつこいんです。ただ、天ぷら油だけではダメで、ラードを加えるなど試行錯誤を重ね、パン粉も生パン粉にして現在のポークカツレツのルーツが出来上がりました」(木田社長)
これが当たった。フランス料理にはなじみがない客でも喜んで食べてくれたのである。そのポークカツレツが今でも一番の看板メニューであるというから驚くではないか。
初代はディープフライの手法を用いて、エビフライやメンチカツなど、さまざまなメニューを考案した。さらに、明治誕生オムライス、元祖ハヤシライスといったご飯ものは1900年には考案されている。それらがほぼすべて現在まで残っているのだから、初代の偉大さは計り知れない。
個人客のつながりが紡いだ煉瓦亭の歴史
その後、関東大震災や太平洋戦争といった厄災を経て、終戦から1年半くらいして現在の場所で再建。最初は厳しかったものの、次第に戦後景気で店は盛況となっていく。昭和30年代、40年代には近隣の会社の懇親会が毎晩のように入り、休む間もないほどだったという。
その後は、64年の東京オリンピックに合わせて現在のビルを建て、今に至る。東京オリンピックを当て込んで規模を拡大したわけだが、その頃から次第に客層が変わり、家族連れや女性同士の客も増え、異なる意味ではやりの店となっていった。とくに初代が考案した明治誕生オムライスが女性に人気になったという。
時は流れ、時代はバブルへと進んでいく。もちろんのこと、景気はよかった。バブルがはじけた後も、銀座の飲食店は数年間は客足が落ちなかった。それよりもバブルのもたらした変化は客層だったという。
「それ以前から変化は感じていましたが、本当の意味でいろいろな世代や職業の人が訪れるようになったのはバブル期からだった。家族3世代で通うというような客もずいぶん増えました。そしてその客がまた次の客を誘うという伝播が起こっていくようになったのです」(木田社長)



















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