"現存する最古の洋食屋" 銀座・煉瓦亭のメニューはなぜ古くならないのか? 130年のレシピに施す《客に気づかれないプラスチェンジ》の妙技

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それでも、銀座という激戦地で盛況が続いているのは、何よりポークカツレツという“不動の4番バッター”から、オムライスやハヤシライスのような“ヒットメーカー”を擁していることが大きいのだろう。何がそこまで多くの人を引きつけるのか。

煉瓦亭を創業したのは、木田社長の曾祖父にあたる木田元次郎氏。明治半ばの生まれで、時代の流れもあり、10歳頃からさまざまな仕事をしてきた。相撲部屋の門を叩いたこともあれば、旅芸人の一座に加わったこともあったという。

そんな中で、上野公園で開催されていた万国博覧会を見に行く機会があり、初めて西洋人の文化に触れた。富国強兵の時代にあって、身体の大きな西洋人に相対していくためには、これからは日本人も西洋の食事を摂らなければならない、心底感じたのだそうだ。そこで自分の向かうべき道が見え、西洋料理の修業に飛び込んだ。

横浜のホテル(現存せず、名前は不明)で数年ほどフランス料理の研鑽を積み、銀座で独立を果たした。1895年(明治28年)のことである。まだ10代であったというから、相当に才覚があったと思われる。

名物「ポークカツレツ」はこうして生まれた

ポークカツレツ
看板メニューである「元祖ポークカツレツ」(撮影:今井康一)

最初の店は現在、百貨店の松屋がある場所の一角を借りた店だった。その辺り一帯の銀座1丁目から4丁目の表通りが「煉瓦地」と呼ばれていたため、「煉瓦亭」と命名した。

当時、銀座は職人街として新興の街で、銀座なら勝機があるかもしれないと思ったのが、銀座を選んだ理由だそうだ。同時に、築地に外国人居留地があり、そこからの客足も見込んでのことだった。

ところが、明治30年代に入ってまもなくの頃に居留地が廃止になり、日本人の客を多く入れなければならなくなった。そこで、まだまだなじみのないフランス料理だけでは難しいと判断した。

当時ホテルでの西洋料理といえばコース料理がメインで、慣れていない日本人には食べきれない。銀座に数軒あった西洋料理店ではアラカルトに対応していた。それはよいと、単品のメニューの開発に励んだ。

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