また、義経の首は酒に漬けられて鎌倉の腰越浜に運ばれてから、梶原景時と和田義盛が首実検を行った。そのことから「奥州から時間を経て届けられたのに、本物の義経の首と判別できたのだろうか?」という疑念を生むことになったようだ。
さらに「平家を打倒したヒーロー義経が生きていてほしい」という思いがあったからこそこれだけ拡大したと思われるが、加えて義経の死に方も関係している。
義経をかくまっていた藤原泰衡が、一転して討伐に動いたことについては『吾妻鏡』に「且は勅定に任せ、且ほ二品の仰せにより」、つまりは、朝廷の勅命と頼朝の命令と2つに従ったとある。
平家滅亡の功労者でありながら、実の兄と不仲になり、31歳で殺されてしまう――。源内と同じく、その悲劇性の高さから「そんな最期であるはずがない」という思いが、生存伝説を生み出したのだろう。
ロシア脱出が噂された西郷隆盛
西南戦争で敗北し自害した西郷隆盛も、生存説が噂された人物の一人だ。
切腹した西郷の首は、官軍歩兵第7連隊の千田登文中尉によって発見され、山県有朋によって首実検が行われた。そのうえで、胴体とともに西郷南洲墓地に埋葬されている。それにもかかわらず、西郷の首について偽物説や未発見説などが唱えられ、こんな噂が流れることになった。
「西郷は実はロシアに脱出して生き延びている」
噂の発端は、明治24(1891)年4月にロシアの皇太子ニコライが来日する数日前の3月25日の鹿児島新聞に、こんな投書が掲載されたからだ。
「西郷がシベリアでロシア兵の訓練を行い、明治17(1884)年には黒田清隆が西郷を訪ねて、2人で日本の将来について議論を重ね、明治24(1891)年に帰朝すると約束した」
新聞各紙がこの風説を取り上げたことで報道が過熱。新潟の「北辰新聞」のように「西郷の生死について多数決で決める」というよくわからない企画まで行われた。
西南戦争では、幼少期から志をともにしてきた大久保利通に追い詰められた西郷。平賀源内や源義経と同じく悲劇的な最期を迎えたことで、「どこかで生きていてほしい」という人々の思いが募ることになったが、西郷の場合はそれだけではなかった。



















無料会員登録はこちら
ログインはこちら