生存説が噂された歴史人物といえば、兄・源頼朝の命を受けて平氏を滅ぼした、源義経を思い浮かべた読者もいるかもしれない。
義経の最期については、文治5(1189)年6月15日、『吾妻鏡』に「今日、陸奥国に於いて、泰衡、源予州(義経のこと)を襲ふ」とあるように、義経は平泉の衣川館で藤原泰衡の軍勢に攻められた。その顛末について次のように書かれている。
「義経の家来らは防戦したものの、ことごとく敗北した。義経は持仏堂に入り、まず妻(22歳)・子(4歳女子)を殺し、その後、自ら命を絶った」
(予州の家人相防ぐと雖も悉く以て敗績す。予州持仏堂に入りて、先づ妻〔廿二歳〕・子〔女子四歳〕を害し、次に自殺す)
そんな義経の生涯が、南北朝から室町時代にかけて軍記物語『義経記(ぎけいき)』で語られるようになり、江戸時代には浄瑠璃や歌舞伎、読本(よみほん)と「義経物」というジャンルが生まれるほどに拡大。義経が実は生き延びていた……という展開が誕生することになる。
「義経=チンギス・ハン」説はベストセラーに
義経人気が高まるなかで、寛文10(1670)年に林春斎が『続本朝通鑑』で「義経は生き延びて蝦夷に逃亡したらしい」という俗説を取り上げたことで「義経生存説」は広く知られるようになった。
さらに、オランダ商館医として来日経験もあるフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが嘉永5(1852)年に自著の『日本』で「義経は蝦夷地からモンゴルに至り、チンギス・ハン(ジンギスカン)になった」という説を展開。シーボルトは、新井白石の『蝦夷志』などを参考に同説を論じたとされる。噂が噂を呼んで、どんどん話のスケールが大きくなっていったようだ。
明治時代には、東洋学者のウィリアム・グリフィスや政治家・末松謙澄が「義経=チンギス・ハン説」を提唱。末松の『義経再興記』は一大ムーブメントとなり、さらに大正13(1924)年には「義経=チンギス・ハン説」の実証を試みた小谷部全一郎の『成吉思汗ハ源義経也』がベストセラーとなっている。
与太話では済まないレベルで浸透することとなったのは、義経が奥州平泉で自害したのが1189年で、チンギス・ハンがモンゴル帝国を建国したのが1206年と、比較的近い時期だったことが、挙げられるだろう。



















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