「親ガチャに外れた」と嘆く若者が、転生小説『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』に惹かれる本当の理由

著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

自分のスペックを、「現代」の人と比較していたが、「戦時中」の人と比較することで、よりよいものであることに気づく。タイムスリップによって現世を異化することで、自分の置かれたスタート地点がどこにあるかという認識を変化させたのだ。

『あの花』は、百合にとって、親ガチャを無効化し、いわば時代ガチャをインストールする物語なのである。だとすれば『あの花』は実際に「転生」のモチーフが物語の最後に登場するように、「転生」の流行のなかにあってヒットしたと言えるだろう。

現代の若者は努力したくないわけではない

面白いのは、『あの花』や『転生したらスライムだった件』(伏瀬、マイクロマガジン社、2013~2015年、以下『転スラ』)では、決して作中で努力を軽んじているわけではない点だ。「転生もの」と言うと、もしかすると「転生さえすれば、努力せずとも異性に愛されたり幸せになったりする物語」とイメージする人もいるかもしれない。

が、じつはそんな簡単な話ではない。主人公はむしろ転生先でのほうが苦労する。努力や苦労を重ねざるをえない環境に放り込まれるからだ。転生って大変なんですよ。

社会学者の土井隆義は、現代の若者は生得的属性を強く重んじる傾向にあるため、「生得的に努力に向いている人は努力できる」と考えると説明する。

彼らは、努力することの価値はそのお題目通りに認めています。素直すぎるほど素直に受け入れ、肯定しています。しかし、だからといって努力すれば自分の未来も拓けると思っているかといえば、けっしてそんなことはないのです。
そんな未来がありうるなどとは露にも思っていません。なぜなら、それだけの努力に耐えられるだけの資質や能力は、自分には備わっていないと思い込んでいるからです。自分はあらかじめそんな能力をもって生まれてきてなどいないと決めてかかっているのです。なぜなら、そんな能力もあると実感しうるような機会にこれまでほとんど恵まれてこなかったからです。
(土井隆義『「宿命」を生きる若者たち 格差と幸福をつなぐもの』)

努力の価値は認める。だが自分は努力しても、人生が成功するとは思えない。

──一見矛盾するように感じられる思想が若者のなかに両立する理由は、「生得的な能力」(スペック)という概念を補助線として引くと、理解しやすい。

次ページ「転生もの」のヒットと、格差が広がる日本社会の関係
関連記事
トピックボードAD
キャリア・教育の人気記事