インドの安宿で受け取った「薬」がよく効いた理由。出会ったばかりの韓国青年はなぜ大事な薬をくれたのか? 分断の時代に思い出す「旅の1コマ」

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開けると、韓国人の青年が立っていた。共同スペースで何度か顔を合わせるうちに同じアジア人ということで仲良くなり、何度か一緒に散歩をしていた。その彼は、小さな薬の袋を差し出して、言った。

「お母さんが持たせてくれたんだ。体を壊したら、飲みなさいって」

私は戸惑った。これはきっと彼にとって"お守り"のはずだ。旅の途中で体調を崩したとき、母親の愛情が詰まったこの薬は、どれほど心強いものだろう。それを、会ったばかりの日本人に、彼は惜しみなく差し出してくれる。その行為にありがたさと申し訳なさが入り混じって受け取るのをためらった。

「でも、これ…」と言いかけた私に、彼は軽く首を振りながら言った。

「僕は必要ない。今、必要なのは君だから。もし僕が困ったら、その時は誰かが助けてくれるさ」

頭を下げて、薬を受け取った。薬はよく効いた。だが、それ以上に心に沁みたのは、彼のその行為そのものだった。異国の地で、見ず知らずの人間に、自分の大切なものを惜しみなく差し出す。その温かさに救われた。

韓国の「ウリ」に見つけたヒント

社会人になってから、何度も韓国を訪れるようになった。

仕事でもプライベートでも、気がつけば20回以上訪れている。知人が増え、彼ら彼女らと深く話をするようになって、ようやく気づいた。あの青年の行為には、韓国特有の文化が宿っていたのかもしれないと。

韓国には「ウリ」という概念がある。日本語では「私たち」と訳されるが、その感覚はややニュアンスが異なる。ウリは、国民、家族、友人、同僚、そして時には出会ったばかりの他人でさえも包み込む共同体意識だ。

ウリの面白さは、家族や友人だけではなく、所属する組織やコミュニティ、数人の友達などであっても使われること。帰属意識と仲間意識の強さが根本にあり、個人を起点とせず、「私たち」から始まる言語構造が、この意識を物語っている。

ある意味で、個人と集団の境界が曖昧であり、情緒的な一体感でもある。儒教文化に根ざした集団主義と、朝鮮半島の歴史的な外圧に対抗するために育まれた連帯意識の産物だと言われる。

日本の「和」が調和や協調を重視するのに対し、韓国の「ウリ」は、より感情的で、内と外の境界線を引く性質が強い。一度、ウリに入れば、相手の困りごとは自分の困りごとにもなる。だから、惜しみなく助けるのが当然のことになる。

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