陰謀論をエンジョイしている人々は、あえて意図的に陰謀論をファンタジーと捉えなおしてから楽しんでいるのだ。「それじゃあ、やっぱり確信犯じゃないか、陰謀論は嘘とわかって楽しんでいるのではないか」、と言われるが、それが根本的に間違っている。正確に言えば、無意識的に、しかし自らの意思で、つまり、自ら無意識の選択として、陰謀論をファンタジーに置き換えているのだ。
陰謀論に「事実」という概念を持ち込むこと自体ナンセンス
いくら言っても伝わらないかもしれないが、ここにおいて、通常言われる「事実」はどうでもよいのだ。厳密には、どうでもよいのではなく、「事実」かどうか、「事実」とは何か、ということを考えては「いけない」ということだ。それがファンタジーのルールである。
『となりのトトロ』で、猫バスがこの世に実際に存在するかどうか、議論をふっかける人はいないだろう。あるいは、『魔女の宅急便』で、魔女がこの世に存在するか、改めて議論を挑む人はいないだろう。いれば、それは野暮であるどころか、どうかしている、と相手にされなくなる。
それと同じことだ。陰謀論が正しいかどうか、事実は何か、などの点に関して議論すること、考えること、そもそも、陰謀論の世界に「事実」という概念を持ち込むこと自体がナンセンスなのだ。
つまり、彼らにとっては、「情報」とは、事実とは無関係に、「自分が選んだ、好きな曲、好きなストーリー」にすぎないのだ。この背景には、この世は自分とは無関係な世界であり、自分がこの世をどのように捉えようと、この世は変わらないという認識がある。
この世がどのようになっているかについて、自分が間違っていようが、この世に関するどのようなストーリーを仮定しようが、その仮定のストーリーを自分勝手に楽しもうが、自分の実際の生活には影響もないのだ。
いわば、現実の「この世」は、彼らにとっては、二次元と同じことであり、自分は、その外側にいるのだ。実際には、豆粒、砂粒であろうとも、その中に存在するにもかかわらず。しかも、現実の「この世」で風が吹けば、豆や砂は飛ばされてしまうにもかかわらず、「自分の周りでは風は吹かない」と高をくくっているのだ。
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