国策半導体の失敗、負け続けた20年の歴史、親会社・国依存から脱却を
「助けてください」
エルピーダメモリは、こんな企業トップの一声がきっかけで1999年に誕生した。経営統合を主導した経済産業省の元官僚・福田秀敬氏は、「親会社のNECと日立製作所に投資する力はなかったが、技術はあった。株式上場できると確信して統合を後押しした」と振り返る。99年には富士通、2001年に東芝がDRAM事業から撤退する中、エルピーダは03年に三菱電機のDRAM事業を譲受。国内最後のDRAMメーカーとして日の丸を背負った。
過去のしがらみにとらわれない辣腕・坂本幸雄社長の手腕によって、一時は自立したかに見えたエルピーダだったが、リーマンショック後の市況悪化で公的資金の受け入れを余儀なくされた。それでも、最終的には市場の荒波を乗り越えることができなかった。
エルピーダの失敗から、半導体産業における国の支援を否定的に見る向きは多い。が、まったく意味がないわけではない。
同床異夢の官民 死屍累々の国プロ
80年代後半、日本の半導体産業は黄金期を迎えたが、その礎となったのは70年代に旧通産省が主導した超LSI技術研究組合だ。国内半導体メーカーの競争力向上だけではなく、製造装置や半導体材料の国産化にも大きな貢献をした。
日本没落のきっかけを作ったのも国の力である。86年から96年まで続いた「日米半導体協定」では、「日本市場における外国製半導体のシェアを20%以上に高める」という厳しい目標が課せられた。当時、外資系半導体メーカーで日本市場を担当していた人物は「米国政府は国家戦略で日本の半導体産業をたたいた。それに対して通産省は中途半端な妥協をしてしまった」と振り返る。