福島原発事故・井戸川裁判傍聴記・判決編(後編) 提訴から10年の訴訟はこれからも続くのか? 〝支援者〟たちとの隔たり
判決の2日後、私は埼玉県加須市にある井戸川の事務所を訪ねた。2階のオフィススペースに入ると、会議用の事務机の上に判決文が用意されていた。
「判決文はコピーしといたよ。他にも何人かが『欲しい』って言ってきたけど、待ってもらっている」
「私にはくれるのですか」
「あなたは私の書面を読んでいるでしょ。読んでいない人はこの判決がいかにひどいか分からない。変に拡散されても困るからね」
「でも準備書面はすべてホームページに載せているのに、判決文だけ載せないわけにはいかないのでは」
「まあ難しいところはあるけどね……」
井戸川の表情に苦渋の色が浮かんだ。控訴について「したくないけれどもまだ迷っている」ように私には見えた。このまま控訴しなければ何も残らないのではないか。
「俺の裁判は勝ち負けじゃないのよ。みんなに準備書面を読ませたかったのよ」
「でも、ほとんど誰も読んでいません。報告集会は『砂漠に水を撒いている』かのようなむなしい光景でした。井戸川裁判の意義は彼らに届いていないのでは」
「じゃあ、どこに水を撒いたらいいのよ。広く伝えてほしいと期待はしていたんだけどね」
負けを認めない、井戸川の意地
ふいに井戸川が席から立って後ろを向いた。視線の先には顕彰団体から贈られた田中正造のカレンダーがあった。
「この人だって、本当のところは分かってもらえていなかったんじゃないかな」
足尾鉱毒事件で闘い抜いた明治期の義人・田中正造は一時期、キリスト教や社会主義運動の「主義者」と連携していた。しかし政府が谷中村を遊水地にする形で決着を図り、日露戦争に国民の関心が集まるのと合わせて、足尾鉱毒事件にこだわり続けた田中は孤立を深めていった。今の井戸川と似ている。
〝支援者〟の存在は井戸川の孤立を覆い隠し、裁判の意義が世に伝わらない障害になってきた。井戸川はもはや周囲に理解を期待するのではなく、自らの生き様を貫くことで歴史に残すしかない。もし井戸川が控訴しなかったら、今後何を訴えても「負けを認めただろ」の一言で片づけられる。
判決から2週間後の8月13日。私はこの日、文化放送「長野智子アップデート」にコメンテーターとして出演し、井戸川裁判について紹介する予定になっていた。出演に先立ち、控訴したのか問い合わせるため井戸川に電話をかけた。
「今日午後3時半からラジオ番組に出演します」
「何をしゃべるのよ」
「もちろん井戸川裁判ですよ」
「昨日東京地裁に行って控訴してきたからね。今、判決文を読んで『コノヤロー』と思ったところをマーキングしているんだけど、マーキングだらけだよ」
井戸川はやはり不屈の将だった。 =敬称略=
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