店舗数は2倍、売上高は4倍…いつの間に「丸亀製麺1強独走」になったのか? 丸亀・はなまる 「セルフうどん」2強の競争の歴史

著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

小野氏によると、意識したのは「店を出るまで100歩歩くとして、70歩にすれば回転率を上げられる。その30歩をどのように減らすか」といった「店内動線の効率化」のようだ。

セルフうどんはネギ・天かすなどをとる台のまわりで渋滞が起きやすいため、羽田空港店ではこの台を3カ所に分散。さらに水をくむピッチャーをテーブルごとに設置、お盆を下げるコーナーも場所変更……ほかの店でも「レジを2台置いたら動線の効率が上がり、売り上げアップ」するような店舗もあったという。

こういった細かな効率化を徹底的に実施したからこそ、羽田空港店は売り上げ2倍、ほかの店舗も大きく実績を伸ばせたのだ。香川県から「セルフうどん」システムを持ち込んだのは「はなまるうどん」の功績であるとして、このシステムを徹底的に効率化、企業として利益を獲れるようにしたのが丸亀製麺、といえるだろう。

あらわになった丸亀・はなまるの「経営力の差」ただ「豪運」にもあり?

丸亀製麺1号店
丸亀製麺1号店(筆者撮影)
焼鳥店「とりどーる」
丸亀製麺が立ち上がる前からあった焼き鳥店「とりどーる」(筆者撮影)
丸亀製麺のあゆみ
丸亀製麺のあゆみ。1号店に掲示してある(筆者撮影)

こうして振り返ると、「セルフうどん」2強から丸亀製麺が抜け出した理由は、「単価・利益アップ」「効率の追求」という経営努力もある。しかし、要因としてさらに「対:丸亀製麺の競争の少なさ」「意図しなかった、結果論での豪運」が加わる。

まず、うどん店としての進出時期が、結果論としてベストだったのかもしれない。創業は確かに「はなまるうどん」と同年だが、丸亀製麺は同じ系列の焼鳥店「とりどーる」に次ぐ実験店的な業態であり、粟田社長の著書でも「丸亀製麺はあくまでも実験店、会社は焼き鳥店メインで上場の準備を進めていたため、讃岐うどんブームの渦中はまだ本拠地(兵庫県加古川市)メインであった。

ところが、2003年頃から鶏インフルエンザが世界で蔓延、人への感染を恐れて鶏肉が避けられるようになり、「とりどーる」の売り上げは激減。粟田社長はやむをえず丸亀製麺に力を入れるようになり、たまたま打診があったフードコート「プロメナ神戸」へ丸亀製麺を出店したところ、これが大ヒット。会社としての命脈をつなぎ、関東へ進出したのが2004年、都心・新宿への出店は10月だった。

この時期はすでに讃岐うどんブームが去り、業界トップとして150店を出店していた「はなまるうどん」は赤字転落する店が続出、他チェーンも業績の転落で軒並み撤退・勢力縮小を余儀なくされていた。ブームによって「セルフうどん」のシステムが各地で知られるようになっていたこともあり、「はなまる」進出前後とは比べ物にならないほど顧客の理解があり、かつライバルが共倒れしたブルーオーシャン(競合が少ない)状態で、関東進出を仕掛けることができたのだ。

次ページはこちら
関連記事
トピックボードAD
ビジネスの人気記事