沖縄尚学・悲願の夏優勝 沖縄県勢が「参加したくてもできなかった‥」歴史と抱えてきた不平等。県民が甲子園に一丸となる「深い事情」

著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小
沖縄尚学高校
沖縄尚学高校正門(沖縄県那覇市、長嶺真輝撮影)

ただ、さらに大きな要因は「甲子園に参加したくても参加できなかった沖縄の歴史」そのものにあると考える。

戦前の沖縄は、教育制度の違いや地理的な不利性などで甲子園出場は無し。これは、当時日本領として組み込まれていた台湾や朝鮮の代表校が戦前の甲子園に出場していたことを考えると、沖縄にとってかなり厳しい状況だった。戦後も、1945年から1972年まで続いた米軍統治下で日本の高野連に属することができなかった。1958年に「特別参加」として首里高校が沖縄県勢として初めて甲子園に出場したことが、県民の大きな喜びとなったのは、当時の沖縄の社会的背景として「他府県に肩を並べたい」という思いが蔓延していたからだ。

1999年、祖父が涙した沖縄尚学の初優勝

1972年の日本復帰前、もしくはそれからしばらく経つまでの“オキナワ”の人々が、本土に対して劣等感を抱いていたことは、筆者が上の世代から見聞きした話からも明らかだ。日本の高度成長期に同乗できずに経済面や教育面、インフラ面などで差がついた。文化や言語の違いを、個性として消化できずに、後ろめたい気持ちを持っていたこともある。差別的な言動に遭った歴史もあった。今も概ね60歳前後から上の世代の人の中には、その種の負の意識をなかなか拭い去れない人だっている。

その状況下で、どこからともなく「大臣が先か、甲子園優勝が先か」という言葉も生まれていった。「甲子園優勝」というフレーズそのものに、沖縄の人々がみんなで見た夢が詰まっていた。

1999年の春の甲子園で、沖縄県勢として初めて沖縄尚学が優勝したとき、中学1年生だった筆者はちょうど祖父母の家で決勝戦のテレビ中継を観ていた。さっきまでの敵味方関係なく、会場全体が沖縄尚学の優勝をウェーブで祝っているのを見て、祖父は泣いていた。「うれしいなぁ、うれしいなぁ」と言って泣いていた。身内の大人の男性が泣く場面など初めて見たので、鮮明に覚えている。

次ページ毎年の“県民的大行事”
関連記事
トピックボードAD
ライフの人気記事