兄が死に、その母は「気絶し絶望」不本意にも養子に出された松平定信が何よりも恐れた"田安家断絶の危機"とは

父の教訓「汝の跡が絶えないように」
寛政の改革を推進したことで知られる江戸幕府の老中・松平定信(1759〜1829)。定信は11歳のとき「治国の道」(国を治めるための方法)を知りたいと思い、自ら探究していたといいます(定信の自叙伝『宇下人言』)。
しかし、本人曰く、その探究の結果は「用にもたちがたく」(役に立たない)代物だったようですが、年少ながら「治国の道」を考察するということ自体が、筆者からしたら「栴檀は双葉より芳し」(大成する人は幼少の頃から優れている)と感じられてなりません。
明和8年(1771)、定信の父・田安宗武(8代将軍・徳川吉宗の次男)が亡くなります。宗武の後継となったのは、定信の兄・治察でした。
定信は、白河藩主・松平定邦の養子となります。治察には妻子なく、田安家としては、定信が養子にいくことを望んではいませんでした。が、定信によると、当時の幕府の「執政」(老中)がこの件を推進したとのことです。
定信を養子にとの話があったとき、兄の治察は定信を召して「教訓」したといいます。その教訓は、自分の考えを長々と述べたものではなく、松平定国(宗武の6男。定信の同母兄)が、伊予松山藩主(松平定静。定静は定勝系久松松平家の出)の養子となる際に遺した父の田安宗武の言葉でした。「治察も話を聞け」とのことで、治察もそのとき、側にいたのです。
宗武は「忠孝仁恕」(仁恕とは思いやりの意)についての話をした後に、次のようなことを定国に述べました。
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