兄が死に、その母は「気絶し絶望」不本意にも養子に出された松平定信が何よりも恐れた"田安家断絶の危機"とは

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「汝が、松山の定静の子(養子)となれたのは、お鉄(鉄姫。定国の妻。定静の養女)のお陰じゃ。よって、今後、お鉄を疎かにしてはならぬ。お鉄の腹に男子が生まれたら、幸せの至り。

妾(側室)に男子が出来て、それにその家を継がせたならば、松平定勝(戦国時代の武将。異父兄は徳川家康)の血脈は絶えてしまう。気の毒に思うところではある。人が孫の顔を見たいと言うのは人情ではあるが、我は不肖の孫の顔を見るよりは、末家または血脈相当の家から養子を迎えて、汝の跡が絶えないようにするほうが良い」と。

治察は、弟・定信に父・宗武の言葉を伝達したのでした。治察は、定信も定国と同じ心がけでいるようにと伝えたかったのでしょう。

こうした懇切な教訓があったからか、定信は兄・治察を「兄ながらも親父の恩あり」と記し、感謝しています。また、治察が自分の教訓を述べなかったことを「篤実」と定信は自叙伝に記します。

治察の死で訪れた田安家の危機

しかし、そんな治察が、定信17歳の頃に病となってしまいます。さまざまな祈祷・療養が行われますが、その甲斐もなく、病状は悪化していきました。

定信はすでに白河松平家に養子にいくことが決まっていましたので、治察にもしもの事があれば、田安家の後継がどうなるのかが気がかりでした(最悪の場合、絶家となってしまう)。

当然、当主の治察も同様です。治察は田安家の家臣や稲葉正明(安房館山藩主)に後継者のことについて相談していました。その際、正明は「賢丸殿(定信の幼名)が再び田安家に戻れば良い」と言っていたようです。そうしたこともあり、治察始め田安家の人々は安心していたとのこと。

そして、安永3年(1774)8月下旬、治察はこの世を去ります。田安家の世継ぎはいまだ定まっていなかったので、喪は秘されていました。

田安家の重臣は、定信に「後継のことが心配でしょうが、稲葉正明の言葉もありますので、それほど、懸念されることはないでしょう」と楽観論を語っていたようです。

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