【べらぼう】徳川吉宗の孫・松平定信、質素倹約の源泉に「贅沢は厳禁」の子供時代

虚弱体質だった幼少期
江戸時代後期の大名・松平定信は「日本史の教科書」的に言えば、寛政の改革を実行したことで知られています。
彼は、宝暦8年(1758)12月、江戸で生まれました。父は田安宗武。宗武は「徳川幕府中興の英主」「米将軍」として有名な徳川吉宗(8代将軍)の次男です。つまり、松平定信は、吉宗の孫なのです。定信は、宗武の七男でした(母は山村氏)。
幼少の定信(幼名は賢丸)は虚弱体質だったようです(定信の自叙伝『宇下人言』)。無事に生育するか心許なかったとのことですが、伊東江雪法眼という医師が「灸薬」を施したことにより、死なずに済んだといいます。
定信の初期の記憶としては、5歳の頃の田安邸の火災があるとのこと。乳母の腹に抱かれて、年少の定信は田安邸を逃れたのでした。
6歳の時には「大病」を経験した定信ですが、多くの薬師(医師)が懸命に治療したので平癒しました。定信は名門に生まれたからこそ、命が助かったといえるでしょう(庶民の家に生まれていたら、亡くなっていた可能性が高い)。
病を乗り越え、7歳となった定信は、仮名を習ったり、『孝経』という儒教の書物を師匠(大塚氏)に就いて読んだのでした。学問に精を出した定信。8・9歳になる頃には、周りの人々から「記憶も良く、才もある」と褒められるようになります。
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