【べらぼう】徳川吉宗の孫・松平定信、質素倹約の源泉に「贅沢は厳禁」の子供時代

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定信はそうした声を聞いて、さもあるべし(もっともなことだ)と思ったようですが、それも束の間。『大学』(儒教の書物の1つ。『中庸』『論語』『孟子』と合わせて四書という)を読み習う段になると、どれだけ教えられても、覚えることができず。

こうした現状を前に、定信は、人々がかつて自分を褒めたのは、本心からというよりは、諂(へつら)いや阿(おもね)りだったということに気が付いたといいます。更には、自分(定信)は記憶力も良くなく、不才であると思うようになったとのこと。

定信は8歳か9歳にして、人間の「裏面」を知ったといえましょうか。

自らの体験を基にして、定信は子供が小さい時に褒めるのは「いとあしきこと」(とても悪いこと)と自叙伝で断じているのです。

12歳で道徳書を執筆

不才を悟った定信でしたが、10歳の頃には「大志」を抱きます。

「日本や唐土にも名声を高くしたい」と念願するようになったのです。

後に定信は、この念願を「大志」のように見えて、愚かなことと振り返っています。しかし「大志」を持ったことも影響したのでしょうか、この頃、定信は著作に邁進したとされます。そして12歳の時に『自教鑑』という書物を執筆したのです。

それは、夫婦、父子、兄弟、友人など人倫の大義をまとめた修身書(道徳書)でした。同書の完成には、師匠の大塚氏の添削も大きかったようです。

『自教鑑』の完成を喜んだのは、父・宗武で、司馬遷の『史記』を我が子に与えたといいます。

学問のみならず、弓・馬・剣・槍術といった武芸にも定信は精進しました。この頃の定信は「弓」と「猿楽」がお気に入りだったとのこと(弓は、夜となく昼となく、打ち込んだといいますから相当なものです)。

名家の子弟として何不自由ない生活をしているように思いますが、その一方で、贅沢の類は厳禁で、鼻紙を入れる袋でさえも「持つのはまだ早い」として所持を許されなかったようです。

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