【べらぼう】徳川吉宗の孫・松平定信、質素倹約の源泉に「贅沢は厳禁」の子供時代
煙草を吸いたいと思っても、14・15歳になるまでは許されませんでした(現代においては、煙草は20歳になってから!)。
父・宗武は、明和8年(1771)に亡くなります。田安家の家督は、定信の兄の田安治察が継承します(治察は宗武の五男でしたが、長男から四男が早世していたため、治察が後継となったのです)。治察は弟・定信を大層可愛いがったとされます。
ところが、この頃の定信は「短気」であり、他人をすぐに怒鳴ったりしていたようです。周囲の人々は、定信のことを嘆かわしく思ったといいます。
師匠の大塚氏などは定信に諫言しますが、すぐには直りませんでした。定信のこのような「癖」も18歳の頃には直ります。定信はその要因を「左右の直言」のお陰と述べています。諫言の大切さというものが分かります。
可哀想な青春時代
13歳か14歳の頃には、初恋のようなものを定信は経験したようですが、家の法度が厳しかったので、19歳で結婚するまでは、真の恋愛感情というものを持ったことはなかったといいます。現代から見ると、それはそれで可哀想な「青春時代」と言えるでしょう。
定信は、安永3年(1774)3月、陸奥白河藩主(11万石)・松平定邦の養子となります。
これは、時の10代将軍・徳川家治の命令だったと言われています。兄・治察は安永3年8月に22歳の若さで世を去ります。治察に妻子はいませんでした。田安家は、絶家の危機を迎えたのです。
(主要参考・引用文献一覧)
・藤田覚『松平定信』(中公新書、1993年)
・高澤憲治『松平定信』(吉川弘文館、2012年)
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