ここで言う一連の論文とは、“市場の失敗”に関するものだ。
古典派経済学者はアダム・スミスの言う“神の見えざる手”を重視するが、アダム・スミス自身が条件付きでそれを主張していたことを彼らは忘れてしまっていて、実際に検証をしてみてもむしろ市場の限界を「露呈」するばかりだったという。
前回の稿でも説明したが、実際には「非対称性」「外部性」その他のさまざまな要因で市場は容易に機能不全に陥ってしまう。そしてその論考は当時も今も論破されていないというのはその通りである。その成果をもってノーベル経済学賞も受賞した。
しかし、当時のフリードマンはそのことにまったく取り合わなかった、ということのようだ。これが事実であれば、なかなか衝撃的なエピソードではある。
「無制限の自由論」の危険性
もし、スティグリッツが述べる経済の姿が実際なのであれば、フリードマンの考える市場の姿と自由主義は“そうであってほしい”という単なる空想的な理想像だということになる。学者としてその状況を危惧し、適切な介入をしない場合の影響を討論したい、自身に誤りがあるのであればぜひ反論もしてほしい、というスティグリッツの気持ちも理解できるだろう。
スティグリッツの前提に立てば、自由はとても大切なものだとして、放任をしていては自由はみな平等には得られない。そもそも自由を行使する出発点にすら立てない人々はどうするのか、という疑問は当然出てくる。アメリカ合衆国という最も裕福な国ですら、自由は平等にあるとは言えない。
それを不問にした無制限の自由論はまさに“選択の自由”ではなく“搾取される機会”になってしまう危険性がある。「オオカミにとっての自由は、往々にしてヒツジにとっての死を意味する」(アイザイア・バーリン)ことにならないか、というわけである。
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