伝説の「1・4事変」の裏で何が起こっていたのか…小川直也が語る《破壊王・橋本真也》との数奇な運命

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これによってシャムロックの4・12東京ドーム出場は消滅。目玉カードを失い大ピンチのなか、逆転の発想で浮上したのが、プロ転向を表明したばかりの小川を緊急出場させ、いきなりIWGP王者・橋本と対戦させるというプランだった。

「だから(4・12東京ドームでのデビューは)予定よりだいぶ早かったね。当初の予定では、2月に(日本中央)競馬会を辞めてから半年間ぐらい、じっくりと準備を整える計画を考えていたんで。

自分としては面食らった部分もあるけれど、いきなり新日本のIWGPチャンピオンと対戦できるなら、願ってもないチャンス。でも、それは橋本さんが受けてくれたからこそ実現したもので、それがなかったら俺のデビューももっと遅くなっていただろうね。

だから、のちに橋本さんが立ち上げたZERO-ONEを手伝うことに至った経緯に関しては、橋本さんとの幾多の闘いもそうだけど、まず自分のプロとしての出発点で、橋本さんがチャンスをくれたことが最大の恩としてあったからっていうのがあるね」

デビュー戦でいきなりIWGP王者を破るというのは、当時のプロレス界では最大の勲章。約3週間後の5・3大阪ドームでのリマッチでは橋本に敗れたものの、小川はプロとして最高のスタートを切ったといえる。

ましてや当時のプロレスファンは、今よりもはるかに過激であり、ある意味で真剣にプロレスを観ていた時代。プロレス界の頂点の証であるIWGP王者でありながら、"外敵"である柔道から来た小川に敗れた橋本へのファンの風当たりは強く、愛車メルセデスベンツ・Sクラス S500のボンネットに心ないファンにスプレーで大きく「小川」と落書きされたほどだ。

そんなリスクある立場でありながら、デビュー戦の相手を受けてくれた橋本。99年1・4東京ドームでの一騎打ち以降、小川と橋本は究極ともいえる因縁の抗争を展開する間柄ではあったが、その一方で小川はデビュー時の感謝の念を抱き続けていたのである。

現在もプロレスファンに語り継がれる「1・4事変」

橋本へのデビュー戦の恩を忘れない小川だったが、橋本vs小川の3戦目で、プロレス史上最大の事件の一つとされ、現在もプロレスファンに語り継がれる1・4事変を引き起こしてしまう。

その真相を求めて考察は繰り返され、また、『証言1・4 橋本vs.小川20年目の真実』『証言「橋本真也34歳 小川直也に負けたら即引退!」の真実』(ともに宝島社)といった書籍では、佐山聡、長州力、ジェラルド・ゴルドーなど、様々な関係者が1・4事変について証言してきた。

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